私はこう読んだ―『聖書 新改訳2017』を手にして
第1回評者 山﨑ランサム和彦
一九七〇年大阪府生まれ。東京大学教養学部卒。同大学院理学部修士課程修了。米国のベテル神学校より神学修士号、トリニティ神学校より哲学博士号を取得。リバイバル聖書神学校校長。
教会が育てる翻訳聖書
新改訳聖書の新しい改訂版『聖書 新改訳2017』がついに出版されましたので、さっそく手に入れて読み始めました。前回の改訂は二〇〇三年に出た第三版ですが、こちらは差別語の表記を見直すなど小規模な改訂にとどまっていましたので、長らく全面改訂が望まれていました。奥付の発行日は二〇一七年十月三十一日となっていて、五百回目の宗教改革記念日に新しい翻訳聖書を世に出す意気込みを感じます。
具体的な変更箇所などについては、各所で語られていますので、この限られたスペースで詳述することはしません。一読した印象では、日本語の表現について細かい変更が多数なされているものの、固有名詞の表記が変わっていることを除けば、第三版に慣れ親しんできた読者は、比較的違和感なく新しい訳に移行していくことができるのではないかと思います。
もちろん、単なる表現上の変更だけでなく、本文の意味内容自体が変わってくるような改訂もいくつもなされています。たとえばローマ16・7では第三版で「ユニアス」(男性名)と訳されていた単語が新版では「ユニア」(女性名)となっており、従来の男性優位主義的なバイアスが多少なりとも修正されてきています。一方で、第三版で「贖い」とされていた箇所の多く(主に旧約)が新版では「宥め」と訳されるなど、より刑罰代償的贖罪理解を前面に出した翻訳になっています。
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完全に「客観的で正確」な翻訳というものはありえません。だからこそ聖書の新訳や改訳が絶えずなされています。どのような翻訳も原文の「解釈」であり、翻訳者の神学的立場が多かれ少なかれ反映されるのは避けられないことです。新改訳2017も例外ではありません。今回の訳文に対しては、異なる神学的立場に立つ方々から、いろいろな意見が寄せられることと思います。個人的にも、新版での変更箇所に同意できるところもあれば、できないところもあり、また旧版で変更を望んでいた箇所がそのままになっていたところもありました。けれども私は、新版がこのような議論の余地を残しているのは、むしろ歓迎すべきことと思います。今回の改訂版について今後活発な議論がなされ、将来のさらなる改訂につながっていくことを願っています。
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つまり、聖書翻訳という営みは出版をもって完結するわけではないということです。出版された新しい翻訳聖書は教会で共有され、読まれ、学ばれ、その意味について広く議論がなされていくべきものです。いのちのパンである神のことばは、神の民がそれを食べて咀嚼し、自分の血肉にしていって初めて、生きて働くものになります。新改訳聖書は福音主義信仰に立つ翻訳者による委員会訳であり、その意味で「教会が生み出した翻訳聖書」と言えますが、そのようにして生まれた翻訳聖書を、今度は教会が養い育てていく必要があるのだと思います。
新版の特徴の一つに、欄外注がさらに充実したことがありますが、注では別の翻訳の可能性や写本による読みの違いなどに関する情報がふんだんに示されています。これは個人やグループでの聖書研究で大いに役立つと思いますが、訳文を吟味し、聖書テクストの意味をさらに探究していく手引を聖書自体が提供していることは、先に述べたような、翻訳聖書を教会が「育てていく」目的のために、たいへん意義深いことであると思います。
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以上述べてきたことは、翻訳聖書は神のことばとして信頼できない、ということではありません。使徒パウロはテモテへの手紙第二の中で、「聖書はすべて神の霊感によるもので、教えと戒めと矯正と義の訓練のために有益です」と語っています(3・16)。ここでパウロが念頭に置いている「聖書」は、テモテが幼い頃から親しんできた聖書、すなわちギリシア語訳旧約聖書のことと思われます。つまりパウロは、たとえ翻訳されたものであっても、聖書のどの部分にも神の息吹が感じられるのであって、それは読む者に生き生きと働きかけ、作りかえていく力を持っていると語っているのです。実際、新約記者の多くはギリシア語訳の旧約聖書から引用を行いました。現代語訳の聖書に「霊感」という言葉を使うのは適切ではないかもしれませんが、聖霊が翻訳聖書を通してもダイナミックに働かれることは間違いありません。
新改訳2017がこれから日本の教会で広く読まれ、用いられていくことを心から願っています。