私はこう読んだ―『聖書 新改訳2017』を手にして

第3回評者 大坂太郎
日本福音主義神学会東部部会理事長・日本アッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団ベテルキリスト教会牧師。

あえて言おう、「あンた」と

所属学会の全国研究会議を終え、日曜学校のクリスマスミュージカルの練習に取り組んでいたら一通のメールが届いた。なんでも『聖書 新改訳2017』のレビューを書いてほしいとのこと。困ってしまった。「素直な感想を」とあるのだが、これがクセモノ。字数はわずか千八百。全体をレビューすることなど到底無理である。だが沈思黙考すること暫し、一つのアイデアがひらめいた。以下、イエスの語ったたとえ話の白眉、『放蕩息子(失われた息子たち)のたとえ』(ルカ15・11~32)を新旧の日本語訳と原文を突き合わせながら読み、感じたことを書いてみたい。
1 「罪を犯した」か「罪ある者」か
放蕩の果てに落ちぶれた弟が我に返って独白をしている18節は、2017では「お父さん。私は天に対して罪を犯し、あなたの前に罪ある者です」と訳出されている。これは非常に踏み込んだ訳である。対して第三版では動詞「罪を犯す(ギ・ハマルタノー)」を二回にしてはいるものの、ほぼ原文通りの「お父さん。私は天に対して罪を犯し、またあなたの前に罪を犯しました」である。確かに「罪を犯した者」は即「有罪」なのだからこの潤色は論理的には成立している。またこう訳すことで罪の行為とその性質についての神学的考察をすることも可能にはなる。しかし私には弟がそんなことを考えていたとは思えない。むしろごく素直に「罪を犯した」事実を認めているだけに見える。第一この個所が「たとえ話」という物語記述であることを考えれば、そこまで深掘りした訳をする必然はなかったように思うのだ。訳を変えた理由を聞いてみたい。
2 「お父さん」か「あなた」か
弟の帰還を心から歓迎した父。その知らせを聞いた兄は立腹した。放蕩三昧の弟とは違い何年も父の家で奴隷のように働き続けた彼の眼には父のしたことは「アンフェア」以外の何物でもなかった。そして彼は言ったのだ「ご覧ください。長年の間、私はお父さんにお仕えし、あなたの戒めを破ったことは一度もありません(15・29)」と。丁寧でお行儀の良い言葉である。ところがここを文語訳で読むと「視よ、我は幾歳もなんぢに仕へて、未だ汝の命令に背きし事なきに……」となり、父に対する兄の怒りが見てとれる。原文の「見よ」を直訳し、父のことは「汝(つまり「あなた」)呼ばわり」である。対して新改訳では初版より一貫して父親を「あなた」呼ばわりするのを避け「お父さん」を用いている。2017ではさらに「ご覧ください」と「お仕えし」という尊敬語を用い一層マイルドになった。このような尊敬語の使用は長幼の序を重んじる日本文化にはよく適合するが、原文に際立つ兄息子のストレートな怒りを覆い隠し、巷間言われる「孝行息子(兄)が怒るのは当然だ」という意図されない結論へ読者を導きかねない。実際、兄息子は孝行息子などではなかった。それは父を「あンた」(!)呼ばわりし、弟を「このあなたの息子(15・30〔第三版〕)」と突き放すことによって顕在化している。兄もまた失われており、その心は弟同様父から遠く離れていたのだ。
3 「子よ」と呼びかける父
ひねくれた果てにいきり立ち、「見ろォ、あンたはだなぁ」と啖呵を切った兄に対して父はどうしただろう。父は徐に口を開き「子よ(31節)」と呼びかける。これは掛け値なく素晴らしい訳出だ。実は新改訳第二版まではこの「子よ」は訳されていなかった。恐らく日本語にはなじまないということだからだろう。しかし「子よ」抜きで読むと31、32節はいかにも冷たい。だが第三版、またそれを継承した2017で読むと「子よ」の一語によって父の溢れる思いが伝わってくる。父はこう言いたかったのだ。「我が息子よ。おまえは奴隷なんかじゃない。私のものは全部おまえのものじゃあないか。そしてあの『彼』は私の息子であると同時に、おまえの弟ではないか」と。父が求めたのは断絶した関係の回復であり、兄が真の意味で「子」であることを取り戻すために祝宴の外に出たままで説得を続けているのである。

聖書翻訳とは斯様にデリケートな作業の積み重ねである。ましてや今回は聖書六十六巻全部を翻訳し直したのだ。想像を絶する困難があったことは間違いない。『聖書 新改訳2017』は多くの翻訳者たちの愛の労苦(Ⅰテサロニケ1・3)の結晶だ。それを心から喜ぶとともに、八木重吉が歌ったように「この聖書(よいほん)のうちがわへはいりこむ」ようなポリティカル、もといセオロジカル・コレクトネスを超えた、琴線に触れる「読み」を追求したいものである。