私はこう読んだ『聖書 新改訳2017』を手にして
第6回評者
吉川直美
単立シオンの群教会牧師。聖契神学校教師。女子寮主事。
新しいぶどう酒を注がれて
初めて熟読した聖書は、新改訳聖書の第二版だった。未知なる聖書の世界に興奮冷めやらず、いやというほど付箋を貼り、書き込みや色とりどりのマーカーをしたものだった。第三版に切り替えてからは書き込みを控えるようにしたが、何章何節はおおよそ左下にあるというように、聖書箇所を視覚で記憶し、暗唱聖句も耳に残っている。新しい聖書に切り替えるということは、心とからだに染みついた記憶を再編し、そこに新しいことばが注がれていくという、信仰人生の中でそう何度も経験することのない貴重な機会である。『聖書 新改訳2017』という新しいぶどう酒はどのような味なのだろう、私はその新しい酒を受け入れ、存分に用いることができるだろうか―。緊張と期待に胸が高鳴った。
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新改訳聖書が代々の翻訳において、一貫して尊重していることのひとつは、原典に忠実ということであろう。当然のことのようだが一筋縄ではいかない。バベルの塔の出来事以来、私たちは苦労して他言語を学び、聖書も多大なる労力と歳月をかけて翻訳しなければならない。そして、どれほど適切な日本語に置き換えようとしても限界がある上に、釈義、聖書学、神学等の研究成果によって、解釈に変化や幅が生じる。たったひとつの言葉の選択にも、思い悩み、苦渋の決断がなされたであろうことは想像に難くない。
それゆえ、説教者は最新の動向にアンテナを張り、日本語訳を鵜呑みにせず、原語や他の訳にもあたるという責任が付きまとう。結果として、訳語の選択や語順が解釈に多大な影響(時には誤解)を与えている事実に直面し、会衆に「日本語の訳はこうなっていますが、原語では……」と説明しなければならない。しかし、このような説明が度重なれば、聖書は、知識のある一部の人しか正しく理解できないと思われかねない。
この葛藤を埋める手立ては、やはり日本語の訳がより洗練され、刷新されていくことであろう。聖書翻訳こそ、すべての研究成果を教会に還元する機会であり、両者の間をつなぐ使命なのだ。事実、「2017」においては、前述のような補足説明の必要からかなり解放されており、大いに助けられている。
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また、原典に忠実であるという使命と同時に、日本語の美しさ、通りのよさ、格調高さも兼ね備えていてほしいという贅沢な願いがある。
聖書はそもそも口に出して読まれてきたものだ。会堂で朗読され、子どもたちに暗唱させ、賛美されてきた。とはいえ、発音も語順もまったく異なる言語である。文意を損ねずに、滑らかな日本語に置き換えるのは至難の業である。それを乗り越えて、どのような変化がもたらされるか注目していたが、期待どおりに、代名詞が整理され、適度の漢字使用で読みやすくなり、詩文(賛美)と散文の使い分けも丁寧だ。よりシンプルにそぎ落とされた表現もあれば、逆に言葉が補われたことによって、なるほどそういうことだったのかと理解が深まる箇所もある。たとえば、比喩表現の多い雅歌で読み比べてみると、「ようだ」の多用が削られ、体言止めで余韻を残しており、ことばの響きがすっと心に入ってくる。
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最後に、一般社会で使用されている固有名詞の基準が採用され、世界史や地理との距離が近づいた点に触れたい。聖書を読み始めた当初の私は、一般の出版社で編集者をしていたこともあり、通常あまり使わない表現や用字用語、漢字使用の基準、固有名詞が使われていることに戸惑いを覚えた。もちろん、聖書は神のことばであり奥義であるから、一般的な表現の枠に収まらなくとも不思議はないのだが、必要以上に、社会の基準と合わせるつもりのない特殊な世界という印象を抱かせているように感じた。
当然のことながら、聖書翻訳の方向性はその時代の神学と無縁ではない。用字用語の変化ひとつとっても、単なる利便性から生じたことではなく、教会が包括的宣教観や、「地の塩」としてこの社会に遣わされているという認識に立っていることの現れではないだろうか。『聖書 新改訳2017』という新しいぶどう酒を注がれて、教会がさらに「地の塩」として成熟していくことに期待したい。
翻訳に関わる方たちから「聖書翻訳は教会のわざである」という言葉を何度か聞いたが、実際に使い始めて、その意味をかみしめている。ペンテコステの日に与えられた、イエス・キリストを証しすることにおいて言語の障壁を超えるという使命は、翻訳というわざを通して今なお教会に託されているのだ。改めて、翻訳から刊行まで心血を注いで労してくださったすべての方に、感謝を申し上げたい。