ことばのちから 第8回 ことばと音楽がつくる平和

シンガーソングライター

沢知恵

今日、「ことば」そのものがもつ意味が薄くなってきているのではないでしょうか。そんななか、「いのちのことば」という名を冠する雑誌としても、その「ちから」について改めてご一緒に考えていきたいと思います。第7回に引き続き、シンガーソングライターの沢 知恵さんです。

初めて韓国でコンサートをしたのは、一九九六年のこと。歌手になって五年が経っていました。幼いころ暮らした母の国、韓国でうたいたい。自然にそう思ったのです。知り合いを通じて話はとんとん拍子に進み、日程と会場が決まりました。胸が高鳴りました。
ところが、いくつかのハードルが立ちはだかりました。まず私が日本人、つまり日本国籍をもつということ。半分は韓国人のつもりでいましたが、国籍は国籍。「日本人」の私が韓国でうたうには、政府の特別な許可がいるというのです。知人と話し合い、適当なイベント・タイトルをつけて、コンサートではないように見せかけて、ふたをあけたらコンサートだったことにしよう、ということになりました。「ケンチャナ、ケンチャナ(大丈夫、大丈夫)。」言われるままに、そうしました。
無事(?)許可がおりたと思ったら、今度は「日本語ではうたえない」ことがわかりました。ガーン! 私は知りませんでした。韓国では、日本語でうたうことがいっさい禁じられていることを。世界中のどの言語もゆるされるけれど、日本語だけはダメ。私は戸惑い、ショックを受けました。

韓国には、流ちょうな日本語を話す年輩の方がおおぜいいらっしゃいます。幼いころ、若いころ、日本の植民地下で身につけた日本語です。私の母方の祖父母も、美しい日本語を話しました。祖父、金素雲は、日本と韓国を行き来し、日本の人たちに朝鮮の詩の心を伝えようと、たくさんの翻訳をした文学者です。北原白秋らに「日本人より美しい日本語」と称されて、岩波文庫に『朝鮮詩集』などを残しました。ことばを奪われた生々しい記憶は、まだ人々の心に色濃く残っていたのです。
日本語がダメなら、韓国語でうたおう。私は気持ちを切りかえて、うたの翻訳作業に取りかかりました。二歳から六歳まで韓国語だけで育ったので、発音はネイティブのもの。読み書きも、ゆっくりならできます。母の協力も得て、翻訳はスムーズにいきました。かくして私は韓国語でうたい、語り、コンサートは大成功でした。

アンコールのとき、こう語りかけました。「今日、私は日本語でうたうことができませんでした。でも、いつか日本語で聞いてほしいうたがあります。それをこれから『ラララ~』でうたいます。」客席からは、「日本語でうたわせてやれー」「日本語で聞きたいわ」というあたたかいヤジが飛びました。私はピアノでイントロを弾き出し、「ラララ~」と歌詞なしでうたいました。それが《こころ》です。いまや夏川りみさん、クミコさんほかたくさんの方がカバーしてくださっている私の代表曲。戦前の朝鮮の詩を、祖父が日本語に翻訳し、六十年のときを経て私が出会って曲をつけたラブソングです。このうたは、メロディーとことばがあまりにも分かちがたく結びついていて、韓国語に翻訳し直すことができなかったのです。
二年後の一九九八年、韓国は日本の大衆文化を開放しました。そして私は、韓国で戦後初めて公式に日本語でうたった歌手となりました。そのとき許可を受けてうたったのが、《こころ》と《故郷》です。「わたしのこころは湖水です/どうぞ漕いでお出でなさい~。」静かな湖水に水紋が広がるように、うたがしみわたりました。《故郷》のときは、なんと客席から歌声が聞こえてきました。「うさぎおいしかの山/こぶなつりしかの川~。」そうです。昔、植民地下でおぼえたうたが、韓国の人たちのからだからあふれてきたのです。視界が涙でにじみました。
終演後、楽屋にかけつけてくれた人たちから、「日本語の美しさに感動した」「韓国語にはない抑制された響きが美しい」という声を聞き、私は感無量でした。
二〇〇一年、ピョンヤンでうたう機会を与えられました。「ピースボート南北コリア・クルーズ」に参加したのです。北朝鮮では、朝鮮語(韓国語)でうたわないでほしい、と言われました。韓国とは反対です。聴衆にわかる言語で語りかけてほしくない、あくまでも日本人として日本語でうたってほしい、というのです。私は北朝鮮でも有名な《男はつらいよ》のカバーや《こころ》をうたいました。
韓国も北朝鮮も、ことばの力、音楽の力をよく知っている国です。いま北朝鮮をめぐって、東アジア、世界が動き出しています。ことば、音楽が平和をつくり出していけると信じて、今日も私はうたいます。