特集 もしも人生に戦争が起こったら イエスさまのみことばに従い抜く
キリスト者学生会(KGK)主事 塚本良樹
「もしも人生に戦争が起こったら」というテーマで文章を書くことを依頼されたとき、思い出した出来事があります。私が高校生のころ、「さとうきび畑の唄」という、沖縄戦を舞台として、一つの家族が、戦争に巻き込まれていくというドラマを観ました。このドラマを一緒に観ていた母が、泣きながら、このように言ったのです。「この昇っていう男の子と良樹が重なったわ」
昇というのは、そのドラマに登場する家族の次男の高校生で、臆病者と思われたくないために、兵士になることを志願し、自らの隊が潜む洞窟がアメリカ軍に包囲されたときには、上官の攻撃命令に怯え、動くことができなかった親友の身代わりになって爆弾を抱え、敵軍に突っ込み、命を落とします。作中の昇の姿が、負けず嫌いな私と重なって見えたというのです。
そのとき、ぼんやり考えました。もしも人生に戦争が起こったら、私は、昇のように自ら兵士に志願するのだろうか。友人の代わりに自爆するのだろうか。昇の友人のように怯えてしまって、動けなくなるのだろうか―そのように考えたことを思い出したのです。
その後、長い年月が経ち、現在私はKGK主事として働かせていただいています。大学・大学院で政治学を学び、昨年夏までアメリカの神学校で神学を学ばせていただきました。私の専攻は、キリスト教倫理、特に政治・戦争におけるクリスチャンのあり方というテーマです。自分なりの学びと思索のなかで、私が確信しているのは、イエスさまが「敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい」(マタイ5・44)と言われている以上、敵を愛するのではなく、むしろ殺す可能性のある兵士となることは、キリスト者にはできないということです。もちろん、「永遠のいのち」を信じていない一般の方々が、少しでも長生きし、快適な人生を送るために、武装したいと願う気持ちになることは理解できます。でも、キリスト者としては、そのイエスさまの言葉がある以上、兵士となったり、戦争に賛同・協力したりすることは、本来はできないと考えています。
確かに、イエスさまに従った人々のなかには軍人たちがいました。イエスさまは軍人たちを愛しておられます。同じように、イエスさまは取税人たちも、売春婦たちも愛しておられます。でも、それは彼らの行動を正当化しているわけではありません。イエスさまは、罪を指摘する前に、それらの人々を愛し、受け入れ、ともに食事をされたわけですが、彼らがしていることが罪でないとは言っておられません。私は、それが軍人にも当てはまると考えています。
教会の歴史の最初期はキリスト者が軍人になることはありませんでしたが、時代が進むなかで、「正義の戦争」という理論も生まれました。私は、旧約聖書からは、神さまが直接命令を下した場合においては、正義の戦争はありうると言えると考えています。また、神が戦争、特に戦争に敗れることを用いられたこともあります。しかし、歴史上のほとんどの戦争はとても正義の戦争とは言えませんし、神が結果的に悪を用いられる可能性があるとしても、あえて悪に協力すべきではありません。
このような主張を、現代の日本で語ることは、もちろん簡単ではないですが、そこまで難しいことではありません。なぜなら、この国は、今のところ、ではありますが、長きにわたって直接は戦争に参加しておらず、軍人になる方々も少なく、また戦争に対して否定的な見解を持つ方が大勢おられるからです。しかし、お隣りの韓国や、私が学んだアメリカでは、クリスチャンの軍人たちも多く、戦争に従事することは罪ではないと主張するクリスチャンが多数派です。
韓国では、健康な男性は全員が人生のある期間、兵士となる義務があります。韓国でそれを拒否すれば、昔であれば殴る蹴るの暴行を受け、今でも刑務所に入れられ、そして生涯にわたって社会的制裁を受け続けることになるそうです。私の神学校にはたくさんの韓国人の神学生がおられましたが、男性は皆軍隊経験がありました(ただし、軍隊に入ったといっても戦争には行っていない方がほとんですが)。
軍事大国アメリカにおいては、教会に行けば、元軍人の方、あるいは軍人の家族が大勢おられます。私の神学校にも元・現役軍人の方、チャプレン(従軍牧師)になることを目指している方がたくさんおられました(軍隊というのは最も人が救われやすい場所だそうで、その意味では軍隊における伝道は大切です。ただし、しばしばチャプレンは兵士たちの罪悪感と死の恐れを和らげ、彼らがより躊躇なく戦えるようにするために利用されます)。ベテラン・デーという、引退した軍人に感謝する日には、私のフェイスブック上で、友人たちが、自分の家族や友人のなかの元軍人に感謝を表しているコメントがたくさん表示されました。
*
私の神学校の友人の一人は、現役の軍人で、学費を稼ぐために、神学校を休学して、アフガニスタンに行っていました。彼は、あるとき、戦争を罪だと主張するクリスチャンたちへの怒りを語ってくれました。彼は聖書からは反論せず、「配慮が足りない」と言い、自分が、国のために、そして自らの神学校での学びために、つまり神さまのために、軍隊に入ったのだと分かち合ってくれました(確かに、アメリカには、貧しさゆえに軍隊に行くという若者は大勢います)。怒りを分かち合ってくれた彼に、私は「クリスチャンは軍隊に行くべきでない」と言うことはできませんでした。
聖書の時代から現在に至るまで戦争がない時代のほうが短いですから、これから日本でも戦争が起こらないという保証などはどこにもありません。あるいは、自衛隊がさらに増強され、私の周りの人々のなかで、クリスチャンであってもそうでなくても、兵士になることを志願する人々が増えていくということはありうるでしょう。もちろんそうなって欲しくはないですし、そうならないように祈り、行動していきたいですが、韓国のように男性全員が、あるいはイスラエルのように男女両方が軍隊に行くという社会にならないなどという保障はありません。そして、もしも人生に戦争が起こったら、私はどうするのでしょうか。
*
私は臆病です。そのような事態になったら、一気に口をつぐんでしまうかもしれません。日本が参戦している戦争を、「これは神さまのためだ!」と正当化してしまうかもしれません。非常時に巻き起こりやすい過剰な「愛国心」に飲み込まれ、「国境を超えて世界を愛するのだ」と言い抜けなくなるかもしれません。私が、あるいは私の教会の信徒たちが、子どもたちが、社会的制裁を受け、いじめられるよりはましだ、軍隊に行くほうが安全だと考え、兵士になることを志願したり、それを励ましてしまうかもしれません。「敵」の国の兵士に家族や友人が殺されたとき、愛しつつ抗議し、赦しに向かっていくのではなく、とにかく復讐したいと願ってしまうかもしれません。
もちろん、そのような罪を犯したとしても、イエスさまの十字架と復活により赦されると信じています。ここに書いたことは、第二次世界大戦中に日本の多くのクリスチャンたちが犯してしまった過ちです。私もまた弱い者ですから、彼らを見下すことなど絶対にできません。
でも、そのような弱さがある者だからこそ、ここで宣言したいのです。もしも人生に戦争が起こったら、私はその戦争が、神さまがはっきり認めたものでない限り、それは罪であると言い抜きたい。その戦争に協力したくない。軍隊に行くことを、憎むことを、殺すことを拒否したい。もちろん、そのとき軍隊に行くことを選ぶ兄弟姉妹がいるなら、彼らを愛し、尊敬し(危険な場所に行くのですから)、彼らの信仰がその場所にあっても守られるよう、少しでも罪を犯すことがないように、祈りたいと思います。私もまた罪人である以上、彼らの弱さを自らの道徳的優越感のために利用したくはありません。
でも、私は聖書に立ちたいから、もしも人生に戦争が起こったら、人々にバカにされても、それによって信者が減っても、他のクリスチャンに批判されても、逮捕されても、拷問されても、財産や命を失っても、ただイエスさまのみことばに従い抜き、それでも戦争は罪である、神さまが喜ばれることではないと語り抜きたいのです。
私はそのような生き方は、礼拝から始まると信じています。なぜなら人間の力ではできないからです。イエスさまの復活の力と愛とを受け取り、イエスさまが再びこの地に来られ、平和をもたらしてくださる日が来るのだという希望を抱き続けるときに、失うことへの恐れはなくなり、平和を祈り、平和を作る者とされていくと信じているのです。