『歎異抄』と福音 第十四回 法然と親鸞にズレはあるのか?
大和昌平
東京基督教大学教授
悪人こそが救われるという悪人正機説は、近代以降日本人の心を捉えてきたが、これは法然が唱えたものであった。親鸞はその弟子だったが、師とは異なる道を歩み出した。その差異は拠り所とする仏典をどう読むかによる。これは聖書解釈から神学思想が展開するのと同じだ。
法然が悪人正機説の拠り所としたのは、『無量寿経』にある阿弥陀仏の第十八願である。阿弥陀仏の神話は法蔵という名の王が誓願を立て、長い修行の末に覚りを開き、阿弥陀仏と成り、極楽浄土を完成させたというものだ。四十八誓願のうち最重要とされた第十八願を、『無量寿経』康僧鎧(三世紀の訳経僧)訳の書き下し文と試訳で示す。
◇「たとい、われ仏となるを得んとき、十方の衆生、至心に信楽し、わが国に生れんと欲して、乃至十念せん。もし生れずんば、正覚を取らじ。ただ五逆と正法を誹謗するとを除く。」|仮に私が修行を完成して仏と成ることができたとして、全世界の人々が心から信心をし、わが極楽浄土に生まれたいと願い、念仏を十回唱えたとしましょう。それでも極楽に生まれることができなかったとしたら、私は覚りには入りません。ただし、五逆の大罪を犯した者と仏の教えを誹謗する者とは除外します。
「念仏往生の願」と呼ばれる第十八願は、極楽に生まれたいと願って念仏を唱える者を、阿弥陀仏は必ず極楽に迎えるというものだ。一切の条件なしに、念仏を称える者なら極楽往生する。万人救済論ともいえる法然の悪人正機説は、この経典のテキストに拠っている。
ただし第十八願には除外規定がある。五逆を犯す極悪人と仏の教えを誹謗する者は、阿弥陀仏の救済から除外する。五逆とは、父を殺すこと、母を殺すこと、阿羅漢(覚りを目前にした修行者)を殺すこと、仏の体に出血させる傷を負わせること、僧伽(僧侶の集団)の和を破壊することの五つである。加えて、仏の教えそのものを誹謗する者は、救済から除外すると経典には明記されている。
法然は、この除外規定を意識的になのか無視している。いわば単純化された念仏による極楽往生を説き、鎌倉時代に衝撃を与えたのだった。親鸞の主著である『教行信証』には、その除外規定にこだわり続ける親鸞の姿が見られる。阿弥陀の慈悲からも外される極悪人でさえ救われる道は、はたしてあるのかという問題だ。
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阿弥陀仏を語る経典は三部あり、浄土三部経と呼ばれる。『無量寿経』は阿弥陀仏の四十八願を、『阿弥陀経』は極楽浄土の情景を主に語る。『観無量寿経』には「王舎城の悲劇」と呼ばれるもう一つの物語が語られる。極悪人の救いが、その物語のテーマとなっている。
王舎城は、紀元前五世紀に存在したマガダ国の首都だ。実在したマガダ国王ビンビサーラと王妃ヴァイデーヒーの間に王子アジャータシャトルが生まれた。王子は長じて、悪友デーヴァダッタに唆され、父王を幽閉して餓死させようとする。王を助けようとして捕縛された王妃が、悲嘆の涙に暮れる。ここまではリアルな王家の悲劇だ。
そこから神話が展開するのだが、王妃が助けを求めると、ブッダが姿を現して説法をする。わが身の悲劇を嘆き、悩みのない所に生まれたいと願う王妃に対して、ブッダは、極楽浄土を観想(一心に思い描くメディテーション)する様々な方法を説いて聞かせるのである。
親鸞は『教行信証』を王舎城の悲劇から書き始めている。父王を殺す五逆の王子は救われるのかという問題提起だ。親鸞は浄土三部経以外の経典も渉猟しつつ追究してゆく。結論は、五逆の極悪人は、「善知識(良き師)」に導かれ、「懺悔(過去の罪悪を告白して悔い改めること)」を条件として極楽往生が可能になるということだ。
法然はすべての人に慈悲の心を向け、善悪の基準を超えた阿弥陀仏による救済の物語をひたすら語った。しかし、親鸞は、こと極悪人に関しては、根本的な回心(悔い改めて、心を仏に向けること)がなければならないとする。
法然と親鸞との間にズレがあるのだが、見方を変えればむしろズレはないと言えるのではないだろうか。法然は難しい行はいらず、阿弥陀の名を唱えるだけでよいと説いた。しかし、法然自身は戒律を堅持する行の人として生きた。親鸞は師の教えを深め、阿弥陀への信のみでよいと語りつつ、極悪人は良き師に導かれ、悪を悔い改める行がなければならないとした。法然も親鸞も信のみを強調しながら、行は行として残しており、信と行の関係が判然としない。
聖書の福音は、救いは良い行いによらないが、信仰によって救われた者は良い行いに歩みゆくと明示している(エペソ2章8~10節)。そこに罪人を全人格的に建て直してゆく神の論理があることを再確認させられる。
*訳経僧=仏教の梵語原典の中国語等への翻訳に専念した僧侶