リレー連載 牧師たちの信仰ノート 第2回 静まりから生まれたもの(みくに・ひとやすみ開設)
高橋伸多(たかはし・のぶかず)
日本同盟基督教団教師、みくに・ひとやすみ代表。
前回、救いから献身、牧会の迷いの中で主の前に静まることに出会い、どのような変化を経験したかを書きました。一番変わったのは、自己否定から自己肯定へということだったと思います。
アリスター・マクグラスは、著書『キリスト教の将来と福音主義』の中で、こう書いています。「一部の福音派の説教とカウンセリングの心配な面の一つは、『罪の知識』についての宗教改革の教義の不完全な理解から来る罪悪感、無気力、自己不信を生んでいることである」(一九七頁)。
人の罪は、その赦しのために神の御子が十字架にかからなければならないほど深い。しかし、神がそれほどの犠牲を払ってくださるほどに、人は価値がある存在である。この後者の理解が弱いというのです。私もそういう理解の犠牲者の一人だったと、今は思います。
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神の前に静まって、自分のありのままと向き合うことができるようになり、自分を愛するということがどういうことかが分かり始めました。すると、自分を愛するように隣人を愛するとはどういうことかも分かってきました。
神がさまざまな弱さや歪みをもった自分を、ありのままで受け止め、変化に必要な時間も労力も惜しまずに寄り添ってくださると分かってくると、他者に対しても過大な要求はできなくなり、待つことができるようになってきました。
自分は自分、人は人と、自己相対化ができるようになり、人の話に心を開いて耳を傾けられるようになったようにも思います。敬意をもって自分に近づくことを知ったので、人にも同じようにできるようになってきたからでしょう。その人の人生に寄り添ってくださる主のお邪魔をしないように、自分も寄り添うようにしたいと願うようになったのです。
他の同労の牧師との比較や競争心、また恐れから行動していたような自分から、誰にも自然体で接することがしやすくなり、それは宣教の力にもなったと思います。
そういう喜びが増す中で、自分が経験してきた福音の中心とも言えるこの経験を分かち合う奉仕がしたいと願うようになりました。二〇〇八年、三十二年間続けた牧会奉仕を辞して、妻の実家(空き家になっていた、福井県坂井市三国町)にUターンし、翌年「みくに・ひとやすみ」と名づけた休息と静まりの家を始めました。
静まりの前提として、「ひとやすみ」(身も心もくつろげる時間と空間)が必要と考えたからです。妻の親族から空き家になった実家に戻らないかという誘いを以前から受けていたのですが、牧会の渦中にあったときには聞き過ごしていたその話が神の招きの声のように聞こえてきたのでした。九十歳を越えた妻の母の世話をしながら、「みくに・ひとやすみ」は産声をあげました。
スイスで開かれた二週間にわたる人生振り返りセミナーに参加したことを前回書きましたが、私たち夫婦にとって、この経験が信仰と人生の大きな転換点となりました。主の前で静まり、自分とありのままに向き合うには、ゆっくりできる時間と場所(急かされないこと)、導き手、仲間が必要なことも理解できました。独りで静まると、思いが堂々巡りしてかえって落ち着けなくなってしまうのです。
この家の主な来訪者は、牧会者夫妻とご家族ですが、信徒の方々も来られます。年間おおよそ百人くらいの来訪者があります。まず仕事と生活の現場から離れてひとやすみしましょうと、みなさんに呼びかけています。
次回は、この家を始めて十年たったいま、気づくことを書いてみたいと思います。