ことばのちから 第10回 優れたことばには音楽がある

ことばのちから

岩渕まこと

 

第10回 優れたことばには音楽がある

今日、「ことば」そのものがもつ意味が薄くなってきているのではないでしょうか。そんななか、「いのちのことば」という名を冠する雑誌としても、その「ちから」について改めてご一緒に考えていきたいと思います。第9回目に続き、シンガーソングライターの岩渕まことさんです。

二〇〇七年にCD「ぺんぺん草のうた」がリリースされました。このCDは詩画作家、星野富弘さんの作品に私が作曲させていただき、妻の由美子とのデュエットで歌ったものです。このCDに関わらせていただくことになったそもそもの始まりは、ライフ・クリエイションからお話をいただいたことからでした。そしてまずはひとつの作品に作曲をして、星野さんに聴いていただくことになりました。その曲がCDタイトルになった「ぺんぺん草」です。
でき上がった「ぺんぺん草」の歌を携えて、星野さんのお宅にうかがったときの緊張感は今でもよく覚えています。ギターの弾き語りで聴いていただくことになっていましたが、お宅に到着してみると、そこはミニコンサート的なセッティングになっていて、星野さんご夫妻はもとより、お母様にご兄弟、富弘美術館の皆様までが顔を揃えていらっしゃいました。
その方々を前に私は「ぺんぺん草」を歌いました。それを聴いた星野さんの感想はこのようなものでした。「岩渕さんの歌う神様はとても近くに感じられますね」。そして「“風に揺れる”という詩のところは本当に風が吹きますね」。「ぺんぺん草」への作曲は星野さんに好印象をもっていただくことができ、この日からCDの制作に向けて、作曲に打ち込む日々が始まったのです。

さあ、その打ち込む日々はどんな日々だったと思われますか。実は苦しんだのではなく、楽しませていただいた日々となりました。というのも次々にメロディーが浮かんできたからです。それぞれの作品に目を落とした瞬間にメロディーが浮かんできたと言っても過言ではありません。あまりに楽しく作曲ができるという私に、制作サイドでは多少不安を抱いていたほどでした。最終的には三枚のCDをリリースすることになり、収録曲は四十二作品になりました。収録された曲以外にも作曲をしましたので、曲数としてはさらに多くなります。
二枚目の作品「日日草のうた」に「春の縁側」という作品が収録されています。この作品はまさに春の縁側の人物たちを描いた作品で、「入れ歯が落ちた」というユーモラスな表現も登場します。この詩を目にしたときの私は「春に潜む狂気」とでも言いますか、季節と季節のせめぎ合いのような不思議な世界観を感じました。
後日星野さんがこんなことをおっしゃいました「岩渕さんは獣のような感覚をもっていますねえ。『春の縁側』という作品は父を送って一年目の春に書いた作品で、一年前に父を送ったということばを入れるか入れないかで何度も迷った作品なんですよ。ユーモラスなだけじゃなくて岩渕さんが受け取ってくれたイメージに近いんですよ」。このことばに私も驚きましたが、それは星野さんの作品のどこかにそのことが織り込まれていたからに違いありません。
星野さんの作品に作曲させていただいたことからはっきりわかってきたのは、優れたことばには音楽があるということです。どうして私が苦しまずに作曲ができたのかと言えば、すでに作品にはメロディーがあり、私はそれを聴き出せばよかったからなのだと思うのです。
さて、ぐっと話を広げさせてもらいますが、これまでたくさんの講演を聴く機会がありましたが、自然に心にストンと落ちてくるような講演もあれば、なかなか手強い講演もありました。それは講演の内容にもよりますが、なぜこうも違うのだろうと考えているうちに、これも音楽に関係するのではないかと思うようになりました。あるミュージカル俳優の方がこんなことを仰ったそうです。それは「台詞は歌のように、歌は台詞のように」。最初にこのことばを聴いたときに私はあまりピンとこなかったのですが、今ではわかるような気がしています。それはことばは歌と、音楽と深く関係しているのではないかということです。
では音楽を感じることばと感じないことばの違いは何なのでしょうか。それは感動なのだと思います。ことばの紡ぎ手が感動して選ばれたことばたちと、情報伝達の役割だけを担ったことばたちとの違いです。
このエッセイのテーマは、ことばのちからです。私はことば自体にちからがあるというよりは、そのことばを発するに至った感動、心の動きにちからがあるように思います。それはことばにはいのちを吹き込む存在が必要だということです。感動をもって生まれたひとつのことばが十を伝えることがありますし、感動をもたずに発した十のことばが一をも伝えられないということもあります。「春の縁側」は、そのことばとその行間に作者の感動と心の動きが行ったり来たりしているのをはっきりと見ることができました。私も静かに感動の縁側に座って、ひとつひとつことばを紡ぎ出す人でありたいものです。