牧師たちの信仰ノート 第3回 みくに・ひとやすみを始めて十年目―気づいたこと
高橋伸多(たかはし・のぶかず)
日本同盟基督教団教師、みくに・ひとやすみ代表。
第3回 みくに・ひとやすみを始めて十年目―気づいたこと
前回、三十二年間続けた牧会奉仕を辞し、大阪・枚方から妻の実家(福井県・坂井市・三国町)にUターンして、夫婦で休息と静まりの家「みくに・ひとやすみ」を始めたというお話をしました。今年はその家を始めて十年目、気づいたことがいろいろある中で、今回は「休息」について書かせていただきます。
日本の社会やそこで起こっていることを眺めていると、さまざまな問題の底にあるものについて考えさせられるのですが、そのひとつに「休めない日本人性」とも呼べる現実があるように思います。世間では労働と休息のバランスが大切(ワーク・ライフ・バランス)と言われるようになり、国会でも「働き方改革」などという言葉が使われるようになっていますが、現実は何も変わっていないように思うのです。
つまり、休むことは怠惰で、働くことが善と考える考え方が根強く人の心にあるということです。言い方を変えると、よく働くためによく休むことが必要で、効果的でもあるという考えに乏しいとも言えるでしょう。ある人に言わせると日本の社会は「同調圧力」が強く、ひと(他人)が働いているときに自分だけ休むことはできないと感じて、休むのを自粛してしまうというのです。こういう考え方は仕事の効率を下げるだけでなく、一人ひとりの個性や事情を大切にできず、個々人の尊厳を傷つける結果ともなっているのではないでしょうか。人は人、自分は自分と思えず、それはわがままだと考えてしまう。それでは、心身を休めるだけでなく、視野や経験を広げたり、仕事以外の感性が育つ時間を得たりして、神が私たち一人ひとりに与えてくださった創造性を発揮する、そういうことも難しくなります。
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長々と書いてしまいましたが、これは日本社会が抱えている問題であるだけでなく、キリスト教会の問題でもあると思うのです。
イエスは、「すべて疲れた人、重荷を負っている人はわたしのもとに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます」(マタイ11・28)と招いておられます。休息は、旧約聖書律法の一大テーマでもあります。「安息日」、「安息年」をはじめ、神は事あるごとに休むよう命じておられます。上に立つ者が休まないと家族も労働者も休めないとも仰っています。人は普段の仕事を休むことで、体の休息だけでなく、ゆっくりと神に思いを向け、日常の自分のあり方を思い巡らすこともできるからでしょう。そのためには、時間を取って休む。ときにはご馳走を食べ、温泉に浸かるなどして、心も体も憩うというふうに。
牧会時代、私の説教は書斎でではなく、しばしば散歩や入浴中に生まれました(もちろん、書斎での祈りと学びというベースがあってのことですが)。そんな中で、休むことは、人が計画したり、意図したりしない仕方で神様が働かれるスペースを作ることでもあると考えるようになりました。教会のプログラムが「研修」や「会議」などの時間でぎっしりで、神が創造された自然や四季の移り変わりを味わったり、友との交わりを楽しんだりして、心を憩わせる時間が少ない。そんなことはないでしょうか。自分が働かないと、神の御業も進まないという思い込みに陥ってはいないでしょうか。ルターは、自分がビールを飲んでいる間にも福音は前進していると言ったそうです(飲酒を推奨しているわけではありません)。またひょっとしたら、自分の貧しさと向き合うのを避けて(休むとその現実が見えてきて休めない)忙しくしているので、神様も働けず、「新しく力を得、……走っても力衰えず、歩いても疲れない」(イザヤ40・28―31)、そういう神が下さる祝福の妨げとなってはいないかとも思うのです。よく休み元気で働きたい。そう思います。
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教会こそ、休息の祝福、休息の文化を、神を知らないこの異教社会に発信していく基地となるという必要はないでしょうか。地の塩、世の光として。それは福音宣教の大切な一部でもあると思うのです。
「主よ、わたしはこの一日、あれをする時間、これをする時間がほしいとは言いません。あなたがわたしに下さった時間のなかで、あなたがわたしにせよとおっしゃったことを、こころ静かに行うことのできるめぐみを、ただ、それだけをあなたからいただきたいのです。」(ミシェル・クオスト)
私の大好きな、また目指している信仰のあり方を言い表している祈りです。