289 時代を見る眼 聖書の言葉を生きる [1] 心にも特別なお手入れを
日本オープンバイブル教団
墨田聖書教会 牧師夫人
文筆家
宮 葉子
聖書の言葉を生きる [1] 心にも特別なお手入れを
『赤毛のアン』で物語に魅せられ、文学を専攻した。現実世界で人生がこんがらがったとき、結局、文学は役に立たず、溺れかかる寸前、聖書のことばに出会った。浮き輪と思いきや浮き餌だったのか、ぱくっと食べて見事に釣られ、陸に上がって新しい人となった。
生きるとはことばを選ぶこと。それをごはんのようにいただいて、自分のものにしていくことだと思っている。私のように遠回りをせず、とにかくおいしいから食べてみて、元気になるよと伝えたい。いのちの糧と言われる聖書を日々のごはんに喩え、6年前、食いしん坊の私は『こころのごはん』を執筆した。
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牧会の現場で、人が救われ、新しい人になるのを見てきた。ところが、しばらくすると聖書を読まなくなる。それでは餓死すると諭せば、煙たがられて距離を置かれる。私にも覚えがある。こころのごはんは、誰かと一緒にいただくと不思議なように面白いのに、ひとりだととっつきがよくない。
誰しも優しいことば、励ましや慰めが好きだ。ただ、偏食していると、バランスが崩れる。硬い食べ物、耳が痛くなることばだって必要だ。心の中にはいろんなことばが潜んでいる。その大半がマイナス志向だ。デモ、ムリ、イヤダ、メンドクサイ。今回執筆をした『こころのよるごはん』は、この声の正体「ワタシ」から自由になるための、いわば女のひとり飯。「ワタシ」は私の古い人。言い訳が大好物で、自分の都合や考え方を譲れない。
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一日の終わりには、心にも特別なお手入れをしよう。選んだのは詩篇だ。黙想のように、深くかみしめて。多少痛いことばでも、神は愛だもの、安心をして。自力でやろうとすると、聖書は基準が高くて挫折する。でも、ぺちゃんこにされて、愛がないと徹底的に思い知らされるところから、変化が起きる。これが成熟した大人のクリスチャンへの道筋だ。当たり前だけれど、聖書は、それを使うためにある。毎日バランスよく食べて、実践しては、夜、心のズレを戻す。大丈夫、結果は出る。何かの宣伝文句のよう? いえ、こちらは恵み、太っ腹にもタダなのだ。