リレー連載 牧師たちの信仰ノート 第4回「なくてならぬひとつのもの」(牧師の妻として)①

遠藤芳子(えんどう・よしこ)
1959年岐阜県生まれ。
お茶の水女子大学、聖書神学舎卒業。日本同盟基督教団 和泉福音教会伝道師。

牧師でない私がここに書かせていただくことに、かなり躊躇を覚えましたが、一献身者としての信仰の軌跡をとの説明を受け、思い切って筆を執らせていただくことにいたしました。またこれが、牧師であった主人が天に召されるまで信頼し続けた主のご愛を証しする機会ともなれば、幸いに思います。

これまでの私の小さな歩みの中で、さまざまなところを通らされながらも、何とか献身者としての歩みを続けさせていただいているのは、ただただ主の憐れみによるものです。大学三年も終わろうとする頃、「あなたはわたしを愛していますか」とのペテロへの三度にわたる主の問いかけが心に迫って離れず、「はい、主よ。私があなたを愛していることは、あなたがご存じです」と私も繰り返しながら、これからの道を主にお捧げする決意の祈りへと導かれていきました。神学校への入学が許され、以前から願っていた学びに専念できた三年間は、本当に恵みのときでした。不思議な摂理の中で、卒業と同時に結婚に導かれ、二人で教会に遣わされることとなりました。

牧師の妻としての二十二年間には多くのことがありましたが、紙面の都合上、最も教えられたことをひとつだけ、ここに記させていただきたいと思います。私たちにとって三つ目の奉仕先となる、今の和泉福音教会(東京都杉並区)に遣わされて一年目のことでした。当時一歳だった息子を抱き上げられなくなり、階段も昇りづらくなって病院で検査したところ、進行性の筋肉の病気と診断されたのです。
しだいに車いすも必要になり、自分の首を上げているのも苦しくなっていきました。家庭のこともですが、何より、教会の奉仕が何ひとつできない、それは“牧師の妻”という立場にあって、非常につらいことでした。自分なりにこうすべきだという理想があるのに、現実にはそれとはますますかけ離れていく自分の姿がありました。私はここにいていいのだろうか、主人の働きの足を引っ張っているだけなのではないかと、その重荷につぶれそうになって、「もう、私にはできない」と涙ながらに主人に訴えたことがありました。そんな私に、主人はこう言ったのです。
「私は、君にこれをしてくれということは何もない。ただひとつ、自分が講壇から語る説教を聞いて、そのみことばに生き生きと生かされていてほしい。それだけだ」

そのことばは、私の心にずしんと響きました。それに対して「できない」と言ってはならないと思いました。もしそれが、牧師である主人が私に望む唯一のことであるなら、そのたったひとつの使命のために生かされたいと思いました。それまでできないと思っていた多くのことへの焦りと、人の期待に応えられないという情けなさに身動きの取れなくなっていた私は、ふっと向くべき方向を転換させられるような気がしました。
主人に助けられなければ礼拝堂に来ることもできず、「何もできなくて礼拝に出席することしかできない」と思っていた私は、そうではなくて、「神のみことばを聞く」という喜びに満ちた特権と使命がそこに与えられていたのだと、初めて気づかされたのです。牧師の妻としてなすべきと思うことは限りなくあります。しかし、どうしてもなくてならぬひとつのものがあるとするならこれなのだと、病の中で初めて学んだのでした。

その数年後、主人は、当時の私よりはるかに苦しい病状に陥りましたが、かつて私に求めたとおり、神のことばに生き生きと生かされる姿を、身をもって見せてくれました。突然、ALS(筋萎縮性側索硬化症)という難病になった主人は、牧師としてできなくなることが次々に押し寄せてくる中で、決して諦めることなく、神のみことばを取りつぐことに全力を傾けていました。
その段階、その段階で、神が自分に何を語っておられるのかを真剣に聞きながら語るその説教は、それまでに増して迫力のあるものだったように思います。主人も私も、その弱さの極みの中で、いかに主にお仕えできるのかを問われ、その原点を学ばされたのかもしれないと思います。そんな牧師夫婦を全面的に支え、愛してくださった教会の兄弟姉妹に、ただただ感謝するばかりです。