リレー連載 牧師たちの信仰ノート 第五回「神の主権にゆだねて」(牧師であった夫の召天)②
遠藤芳子(えんどう・よしこ)
1959年岐阜県生まれ。
お茶の水女子大学、聖書神学舎卒業。日本同盟基督教団 和泉福音教会伝道師。
前回は、牧師の妻として教えられた「なくてはならぬひとつのこと」、そして突然の主人の発病までを書かせていただきました。主人のそのALS(筋萎縮性側索硬化症)の病は、思いのほか進行が早く、診断から半年も経たないうちに、手足の不自由さに加えて呼吸も難しくなっていきました。
二〇〇七年の新年礼拝の説教を、主人は車椅子に座ったまま、苦しい息の中から絞り出すように最後まで語り続けました。守られたと感謝して帰りましたが、その晩呼吸困難になり、翌日には自宅に大きな酸素ボンベが運び込まれ、緊迫した雰囲気になりました。もともと、「果てるなら講壇で果てたい」と言っていた主人でした。再入院となり、医師から「もう説教は無理だ」と言われ、そのときばかりは、ひどく落ち込んでいました。
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しかし、自分のいのちがあとわずかであることを覚悟した主人は、病院のベッドの上で私に言いました。
「君の再献身のときだね」
主人が召されることなど、とても受けとめることのできなかった私は、主人の妻としての生き方以外には何も考えることができませんでした。
「そんな……」と口ごもる私に、主人は言いました。
「『臆病者、小心者は、主の兵卒に連なることはできない』とエステル記のあとがきに書いたばかりだ。勇気をもって立て」
振り返れば、主人が召された後、くずれてしまいそうになった私を、厳しくも押し出してくれたのは、このときの、私への命令のような主人のことばでした。たとい何があろうと、主にお捧げした身、その使命を忘れてはならない、と。
みことばの説教ができなくなった主人は、「これからは、講壇で語っていたとおりに生きてみよと言われているような気がする」と、静かに言いました。このとき四十七歳になったばかり、まだまだこれから主のためにと、大きな夢をもっていた主人でした。でも、主のなさることを受け入れ、“それでは、間近に迫ったゴールまで、どう主のために走り抜くべきか”と、即、切り替えて主に問うていく姿は、実に潔いものでした。妻である私のほうが、なかなかついていけないほどでした。
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身体のすべての筋肉が衰えて、飲み込むこともできなくなり、胃に直接栄養を入れるための胃瘻の手術を受け、呼吸器といくつもの機械や管につながれてベッドに横たわったまま首ひとつ動かせなくなりましたが、主人は、その神から託された難しい使命を、誠実に果たしたと思います。
自分がかつて語っていたとおり、神の主権の前にひれ伏し、神の愛を決して疑わず、その摂理の御手に委ねて生きようとした主人、それを見せられた最後の日々は、私にとって聖い感動に満ちたものでした。もちろん、限りなく悲しいものではありましたが、主にあって心震えるような霊的な時間でした。ともに、十字架の血により罪赦された者として神の前に立てる恵みの大きさを実感し、永遠のいのちと再会の希望を語り合うその時間は、本当にかけがえのないものでした。天国が、こんなにも身近で、すぐそこにある国なのだという実感を、私は初めてもちました。
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診断から一年二か月経った六月、主人は神のみもとへと召されていきました。これ以上の悲しみを私はほかに知りません。しかし、「主人は、苦しみ抜いた肉体から解放され、今は天にいて愛する主と共に安らいでいる……そしていつか、私もそこへ行く……」
その確信は、何よりも私を慰めるものでした。牧師として生きられた年数は、あまりにも短かったように思いますが、主の目には、与えられた使命を果たすに十分なときだったのでしょう。たとい思いがけない修正を余儀なくされる道であっても、主のご計画に自らを捧げていくその真摯な姿は、十年以上経った今も、私の心に鮮明に焼きつけられています。