私はこう読んだ―『聖書 新改訳2017』を手にして 第12回 みことばの確かさ
第12回評者 鎌野直人
関西聖書神学校 校長。日本イエス・キリスト教団姫路城北教会 牧師。日本福音主義神学会西部部会 理事。
みことばの確かさ
二〇〇七年のアドベント、当時遣わされていた教会は、礼拝や祈祷会で用いる聖書を口語訳から新改訳第三版に変更した。そこで、翌年一年間で通読をしよう、と提案し、信徒の方々とともに一年間で読み通した。口語訳で育った私が通読して感じたのは、「ゴツゴツした翻訳だなあ」であった。
そのあと、不思議な導きによって翻訳改訂委員に加えていただき、改訂の働きの一端を担わせていただいた。そして、『聖書 新改訳2017』(以下『2017』と表記)が発行され、現在遣わされている関西聖書神学校で、二〇一八年四月から一年間「限定」でこの新しい翻訳聖書をその礼拝と祈祷会で用いることにした。一年間限定なのは、次の一年間は聖書協会共同訳を用いるためだ。二つを読み比べたあと神学校としての公用聖書を決めるように、という理事会からの要望に従った。『2017』を読み進めて最初に感じたのは、「第三版に比べて滑らかな翻訳だ」である。改訂のため寝ずに労苦された方々の顔が思い浮かぶだけに、感慨深いものだった。
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さて、私自身も関わった改訂だが、この連載ではあまり取り上げられていない、それでも大切な特徴を具体的にいくつか挙げておきたい。
ひとつは、詩篇などで並行法を十分に考慮したので、原典が透けて見えつつ、力ある訳文になっている点だ。たとえば、詩篇90篇11、12節は第三版では「だれが御怒りの力を知っているでしょう。/だれがあなたの激しい怒りを知っているでしょう。……それゆえ、私たちに/自分の日を正しく数えることを教えてください」と訳されていたが、『2017』では、「だれが御怒りの力を/あなたの激しい怒りの力を知っているでしょう。……どうか教えてください。自分の日を数えることを」と改訂されている。第三版で繰り返されていた「知っているでしょう」(90・11)が、第二行のみ残され、第一行では省略されている。この語は原典では第一行のみにある点を考慮しての改訂である。さらに、第三版は「それゆえ……教えてください」(90・12)と自然な語順の日本語に訳している。ところが原典を見ると、この部分は語順が通常どおりではなく、むしろ「自分の日を数えることを」が強調されている。この特徴を日本語訳で表すために『2017』では日本語の語順をひっくり返したのだ。これらの改訂の結果、緩やかな響きであった第三版の訳が、恐れと緊迫を感じさせる『2017』の訳になった。同様の改訂は、91篇5、6節、95篇9節、96篇13節、103篇17、18節、104篇9節、105篇8節ほか、多数の箇所に見られる。
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もう一つも詩篇から。話者が自らの意志を表すとき、第三版は、「○○しよう」「○○しましょう」という優しい表現を用いていた。しかし、『2017』は話者の意志の確固たることを伝える、より断言的な日本語になっている。たとえば、91篇14節は、神が「わたしは彼を助け出そう。……わたしは彼を高く上げよう」と語っているが(第三版)、「わたしは彼を助け出す。……彼を高く上げる」(『2017』)となっている。101篇1節では、詩人が「私は、恵みとさばきを歌いましょう」(第三版)と語っていたが、「恵みとさばきを 私は歌います」(『2017』)と改訂された。両者とも、話者の確固たる意志を感じさせる訳文となっている。
語られていることばの確かさの表現として、新約聖書からも一例を挙げておこう。ローマ人への手紙5章9、10節では現在の状況と将来の状況が比較されており、「現在が○○であるならば、将来はなおさら○○である」という構文が繰り返されている。「もし敵であった私たちが、御子の死によって神と和解させられたのなら、和解させられた私たちが、彼のいのちによって救いにあずかるのは、なおさらのことです」(5・10〔第三版〕)は決して悪い翻訳ではない。ただし、「救いにあずかる」と訳されている動詞は原語では未来形であって、将来の救いの確かさを表している。残念ながら「なおさらのことです」では、この確かさが表現しきれていない。『2017』は大胆にも「和解させていただいた私たちが、御子のいのちによって救われるのは、なおいっそう確かなことです」とし、将来の救いの「確かさ」を断言しきった。確信に満ちたパウロの主張が聞こえてくる。
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どのような日本語翻訳聖書も完璧ではない。しかし、原典が透けて見えるという特徴を生かしつつ、声に出して読まれ、かつ原典の意図を的確に伝えたい、という改訂者たちの思いが見える。だからこそ、『2017』の詩篇に基づいた「交読詩篇集」が発刊されることを期待している。