『歎異抄』と福音 第十八回 すえとをりたる慈悲とは

東京基督教大学教授

大和昌平

仏教における「慈悲」は、キリスト教における「愛」にかなり近い概念だ。「慈悲」の「慈」はサンスクリットのマイトリー(友愛)から派生し、友に楽しみを与えることを意味する。「悲」の原語は呻きを意味するカルナーで、苦しみを除くことを意味する。「喜んでいる者たちとともに喜び、泣いている者たちとともに泣きなさい」(ローマ12・15)を連想されるのではないだろうか。
しかし、仏教の「愛」に聖書の「愛」の意味はない。仏教の「愛」は、渇きを意味するトリシュナーから派生し、欲望や貪りや性欲を意味する。欲愛・渇愛・性愛と表され、戸惑うほどに意味の異なる概念となっている。
京都で牧師だった時、ある寺院の僧侶から丁寧な質問をいただいた。聖書における「愛」についての質問だったが、スタンダールの『恋愛論』が盛んに引かれていた。仏教用語の「愛」に馴染んでいる方らしいと思い、聖書の「愛」は、ほぼ仏教の「慈悲」ですと返事をしたことだった。
ギリシア語のアガペーで表されたキリスト教の「愛」は、与えてやまない神の慈しみを表し、仏教の「慈悲」に近い。しかし、友愛から派生する「慈悲」に対して、アガペーは背くわが子への痛みを伴った親の愛情という特徴を持つ。だから、親なればこその神の怒りが「愛」には内在する。世界の神学書となった北森嘉蔵(一九一六~一九九八)の『神の痛みの神学』は、仏教書に触発されたことから稿を起こし、はらわたを痛める父なる神の愛を深く論じている。
以上、仏教の「慈悲」と「愛」と、キリスト教の「愛」の接近と乖離についてのいささか長い前置きをして、親鸞の語る「慈悲」に目を向けたい。「すえとをりたる慈悲」(終始一貫した慈悲)と親鸞が語ったのは、『歎異抄』第四章の短い段である。二つに分けて読んでいきたい。

◇「慈悲に聖道・浄土のかはりめあり。聖道の慈悲といふは、ものをあはれみ、かなしみ、はぐくむなり。しかれども、おもふがごとくたすけとぐること、きはめてありがたし。また浄土の慈悲といふは、念仏して、いそぎ仏になりて、大慈大悲心をもて、おもふがごとく衆生を利益するをいふべきなり。」(第四章)|慈悲には仏教の聖道門と浄土門とで意味が異なります。聖道門で慈悲は、生けるものを憐れみ、愛しく思い、面倒を見ることを言います。しかしながら、思うように助けることはきわめて難しいのです。また浄土門で慈悲とは、念仏をして急いで浄土で仏となって、大いなる慈悲の心をもって思う存分に生けるものを助けるべきことを言います。
聖道門と浄土門という分類は、中国の浄土教の学者道綽(五六二~六四五)が『安楽集』で最初に行ったものだ。聖道門とは、戒律を守り、瞑想修行を重ね、覚りを目指すそれまでの仏教を言う。これに対して、自分たち浄土門は阿弥陀仏を信じ、念仏を称えて浄土に生まれ、そこで覚りに至ることを求めるのだ、と位置付けた。このような議論を仏教では教相判釈と呼ぶ。聖道門よりも我々の立つ浄土門がより優れていると論じるものだ。

◇「今生に、いかにいとをし、不便とおもふとも、存知のごとくたすけがたければ、この慈悲始終なし。しかれば、念仏まうすのみぞ、すえとをりたる大慈悲心にてさふらふべきと、云々。」(第四章)|この世においていかに愛おしく、気の毒だと思っても、思いどおりには助けられないのだから、聖道門の慈悲は不完全なのです。したがって、念仏を称えることだけが、終始一貫した大いなる慈悲の心でありましょう、と。
聖道門でいう慈悲は、生けるものを憐れみ、助けてあげたいとすることだけれども、思うように助けることなど到底できないことだ。慈悲の心に生きようとしても所詮かなわないことだという人間の業への悲観論がここにある。
そこでいきおい阿弥陀仏の名を称え、浄土に生まれ仏になってこそ、思う存分生けるものを助けられると飛躍し、「すえとをりたる大慈悲心にてさふらふべき|終始一貫した大いなる慈悲の心でありましょう」と親鸞は語ったのだろう。最後の「べき」は推量の助動詞であり、必ずそうなるに違いないと、一歩引いた親鸞の思いを想像するのは間違いだろうか。今ここで慈悲に生きることを断念してしまうことへの疑念はなかっただろうか。
人間の良い行いへの無力を言うほどに、阿弥陀仏という他力に救いを求める宗教世界がここにある。であるならば、阿弥陀仏の浄土は法蔵という人間の修行によるのだとする神話に矛盾があるのではないか。人間が無力なら、人間を超えた救いがなければ首尾一貫しないではないか。本連載第六回で紹介した内村鑑三「仏教対基督教」の、浄土教へ敬意を表しつつの批判に改めて思いを致したい。