私はこう読んだ―『聖書 新改訳2017』を手にして 思いきった表現と大胆な試み
第14回評者 船橋 誠
一九六五年大阪市生まれ。日本メノナイトブレザレン教団石橋キリスト教会主任牧師、福音聖書神学校講師。
私の所属教団では、『聖書 新改訳2017』(以後、新改訳2017と表記)の出版が近くなった前年の二〇一六年に、二〇一八年からこの新しい改訂版を教団の公用聖書とすることに決めていましたので、奉仕教会のほうも二〇一八年四月から礼拝で使用し、使い始めてもうすぐ一年が経つところです。使ってみての感想をいくつか記します。
新しい聖書という実感
全面的に改訂されたこの聖書は、読者や使用者の側からすると、やはり新しい聖書という感覚ではないかと思います。私たちの教会の礼拝では、詩篇などの箇所を司会者と会衆が交互に朗読しますが、第三版までは、それまでの版の訳を使っていてもなんとか交読ができましたが、この新改訳2017になってからは、併用はかなり難しくなりました。また、礼拝時にスライドで映し出す聖書箇所のページ番号も、これまでは第二版と第三版のページを併記していたのですが、煩雑さを避けて現在は新改訳2017の分だけにしています。
細部にまでこだわった改訂
まず、感想の一つとして挙げると、今回の改訂は、細部まで訳文をチェックして、より原文の意味に近づけられていると感じました。この聖書箇所は、こういう訳にしてほしいと考えていた箇所の多くがそのように改訂されています。例を挙げると、旧約聖書の民数記24章17節で「私には彼が見える。しかし今のことではない。私は彼を見つめる。しかし近くのことではない」と新改訳2017で訳されていますが、第三版まではこの「彼」という言葉が訳出されていませんでした。バラムの第四託宣の箇所で、この「彼」が未来の何者かを指すのか、あるいはダビデか、それともメシア預言か等の解釈の違いはあるのですが、ほとんどの翻訳聖書で訳出されていた言葉でしたので、個人的に気になっていました。新約聖書で挙げると、例えば、ローマ人への手紙12章2節です。第三版までは、「自分を変えなさい」となっていましたが、新改訳2017では、「自分を変えていただきなさい」となって、自分で自分を変えるというのではなく、主によって変えていただくという、神的受動態と呼ばれるニュアンスが、より明確に伝わるような訳に変わりました。
他方、翻訳についてどう評価するかについては賛否が分かれるような、思いきった表現にされたと感じるところがあります。一番驚いたのは詩篇です。今回の改訂では、詩篇は、読点「、」を入れない、いわゆる「分かち書き」の表現になりました(他の詩文表現の聖書箇所では、なぜかそうされてはいません)。例えば、詩篇1篇2節は「主の教えを喜びとし」のあとは読点なしで改行し、次の行の「昼も夜も」のあとは一マスの空白を入れて、「そのおしえを口ずさむ人」となっています。一般の詩の世界ではよくある表現かもしれませんが、聖書でそういう書き方を取り入れるというのは、とても大胆な試みであると感じました。
モノとしての新改訳2017
もう一つぜひ挙げたい点は、これまでの新改訳の版でもある程度そうでしたが、この新改訳2017は、モノである本としての質が高いということです。牧師の多くがそうでしょうが、私もいろいろな訳の聖書を持っています。他社のものがどうであるかを言うつもりはありませんが、新改訳2017は、非常に読みやすい活字フォントが採用され、文字判読の視認性が高いページの紙の色や質、また開きやすい装丁等、全体としてよくできており、愛着を感じられるつくりになっています。最近は、多くの本が電子書籍化され、タブレットでもスマホでも読める便利な時代になりましたが、そうであるからこそ、印刷物としての本は耐久性はもちろんのこと、モノとして所有に値するかどうかが問われる時代に入っていると感じます。聖書は多くの人たちに、ぜひとも購入して大切に読んでほしいという願いをキリスト者として強く持っていますので、その点でも出版社のご尽力に感謝したいと思います。
*
最後に、牧師として、礼拝説教の準備等で毎回聖書に目を通すとき、あまり目立たない言葉であったり、ほんの少しの変化であったとしても、その言葉一つを変えるために、原語(ヘブル語、アラム語、ギリシア語)の校訂本文と、これまでの訳文とを突き合わせて、よりよい翻訳とするために訳語の検討を重ねられたのだろうなと(もちろん変えない場合も検討されているわけですが)、改訂作業に携わった先生方と出版社の皆様の労苦に対して、感謝と尊敬の思いを抱かずにはおれません。これからも大切に読んでいきたいと思います。