私はこう読んだ―『聖書 新改訳2017』を手にして
最終回評者
松元 潤
北海道聖書学院学院長・日本福音キリスト教会連合北栄キリスト教会牧師(四月より若葉キリスト教会)
牧会の現場から
「通読がしやすくなった」というのが、率直な第一印象でした。日本語が私たちの日常会話により近いものとなり、今まで新改訳の特徴である原典に対するこだわりゆえに不自然でぎこちなかった箇所が修正されて、流れるような自然な日本語として入ってくるようになったためだと思います。
他の牧師たちと同様に私も、毎週の説教準備のために定めた聖書箇所の原典を調べ、関連箇所や語彙研究を含めた釈義をして、すなわちミクロ的な学びを組み立てて(もちろん祈りながらですが)説教を作ります。しかし、そこに不定期な奉仕の依頼や牧会上の急務が入ってきたとき、素朴に聖書を読み通していく、すなわちひたすらに神のことばをそのまま素直に聴き続ける時間(説教準備やディボーションとも違う)がどうしても犠牲になってしまうことを正直に告白しなければなりません。その結果、神のことばである聖書全体のメッセージをマクロ的な視点で受け取り損なっていることがあるのではないか、と自戒も込めて自分自身の聖書の読み方を振り返らされています。
信仰書や神学書によってではなく、そして一語への緻密なこだわりを思索し続けることとも違って、聖書のメッセージの全体像を直接的に体験する時間として、通読は精読・学び・瞑想とは別に大切なものとして生活の中で取り分けられるべき時間でしょう。そういう意味でも、ディボーションとは別に、流れるような日本語に助けられて先へ先へと読み進めていく通読がしやすくなったことに、自分自身の信仰生活を助けられています。
1 移行期の恵み
役員会で話し合い、教会全体で二〇一五年から「2017」への一斉切り替えのために二年間を準備期間として、すでに出されていた小冊子を基に学びに取り組んできました。翻訳に携わった先生をお呼びし、教育部主催の学び会も行いました。その時間は、学びに参加した一人一人が聖書は神のことばであることを再認識する時間でもあり、変更箇所とその理由を考えることによって、ことばの意味を深く理解する時間ともなりました。教会員の購入申し込みは一括でしたが、聖書のサイズによって入手時期がずれたことで、かえって祈り会時には一同で第三版と読み比べ(音読で)することとなり、祈り会参加者は翻訳の違いによって、さらにみことばの深さに感嘆する経験もできました。予約申し込み時には、私も予想しなかった恵みの時間であったといえます。
変化を意識することは、必ず、なぜ、何のために、を考えさせ、一つ一つのことばについて深く再考する機会を与えてくれます。そして説教する者もまた、加えられた日本語、なくなった日本語の根拠に原典の解釈があることを意識させられ、神のことばを伝えることにおいて、恐れつつ慎重に説教準備することを喚起される機会ともなりました。
2 さらなる挑戦に向かうことを期待して
『新改訳2017』が新改訳初版から変わらぬ姿勢として、原典に忠実であろうとしていることには心からの敬意を払って感謝したいと思います。ただ多くの信徒は日本語で聖書を読みますから、日本語そのものから力強さやことばの複雑なニュアンスを受け取ります。ですから、同じ日本語であれば、原語が違っていても同じ理解しかできません。
個人的には何箇所か、日本語に原意の微妙な差異を表してほしかったと感じたところがあります。紙面の都合もありますので、一箇所だけ取り上げますと、創世記17章2節と22章17節がまったく同じ日本語で「大いに増やす」と訳出されている点です。アブラハムの生涯全体を追いかけて原文を比べると、後者の場面のほうが神の祝福はより強く強調されています。22章は、アブラハムの人生最大の試練、ひとり子イサクを献げよという主の命令に従った直後の神のことばです。原典を読むと、倫理的な意味をまったく見いだすことが不可能な試練を通して、それでも神に従ったアブラハムに対する神のことばには、彼に対する特別な思いが込められている原語の違い(後者は祝福の約束に「必ず大いに増やす」と訳してもいいのではないか?)を感じます。22章の出来事を境に、神とアブラハムの関係はそれ以前にも増して深められました。その後の創世記24章冒頭は、「老人」アブラハムと主の関係を「主は、あらゆる面でアブラハムを祝福しておられた」と語っているからです。
教会とされている一人一人が、聖書を読んで感動的な神のみこころと御手に気づくために、原典の深さが自然な日本語と調和して現されていくさらなる挑戦が、世代交代の中で今後も続けられていくように期待し祈ります。