『歎異抄』と福音 第二十二回 ただ一向に念仏すべし
東京基督教大学教授 大和昌平
福音書記者たちのように、耳の底に留まる親鸞の言葉を『歎異抄』前半の十章にわたり書き記した唯円は、後半十一章から十八章で親鸞と異なる教えを難じていく。浄土真宗で異端的な教えは、異義あるいは異安心と呼ばれる。唯円の異義批判の要点は二つで、親鸞の説いた念仏往生の教えは、学問によるのでも、行いによるのでもないということだ。今回は、唯円の異義批判の全体像を「学解往生の異義」と呼ばれる第十二章を中心に見ていこう。
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◇「経釈をよみ学せざるともがら、往生不定のよしのこと、この条すこぶる不足言の義といひつべし。他力真実のむねをあかせるもろもろの聖教は、本願を信じ念仏をまうさば仏になる、そのほか、なにの学問かは往生の要なるべきや。(第十二章)|経典や注解書を読み解さない仲間たちは、浄土に往生できるかどうかわからないというのは、取るに足りない異端だというべきです。他力本願の真実を明らかにする諸々の経典は、阿弥陀仏の本願を信じて念仏を申すならば仏になると説いています。その他にいったいどんな学問が浄土往生のために必要だというのでしょうか。
阿弥陀の名を称えるなら浄土に往生できるとの教えは、きわめてシンプルだ。学問的な理解がないと往生できないなんてとんでもない。唯円は返す刀で、そんな「名聞利養」(名誉欲と金銭欲)のために学問を持ち出す手合いが、浄土に生まれるかは疑わしいという親鸞の証文(『末燈抄』)もあるのだぞと、憤りつつ斬り返している。
法然も親鸞も激しい学論の末に、学問によってではなく、阿弥陀仏の名を称えるなら浄土に往生できるとの信心に至ったのだった。このような学や知を超えた信心の宗教世界は、現代人をも惹きつけるものがある。
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詩人で評論家だった吉本隆明(一九二四~二〇一二)の仕事には、『最後の親鸞』に代表される親鸞論がある。
「最後の親鸞を訪れた幻は、〈知〉を放棄し、称名念仏の結果にたいする計いと成仏への期待を放棄し、まったくの愚者となって老いたじぶんの姿だったかもしれない。」(吉本隆明『最後の親鸞』)
これはいかにも詩人らしい吉本の親鸞評であり、「わたしは親鸞を論じながら同時に、じぶんの思想詩を書くことができたような気がする」(「『最後の親鸞』のこと」)というのだ。善と悪を超えた悪人正機説は、知と愚の境をも超えようとしていたと、吉本は親鸞を評価する。
「知者にとって〈愚〉は、近づくのが不可能なほど遠くにある最後の課題である」けれども、『最後の親鸞』はそれをやってのけているように思われる、というのだ。知の極北にあるであろう愚の姿を、老残の親鸞にイメージしているのだろうか。あまりに詩的な親鸞論だと思われる。
しかし、知を超えたところに愚があるというこの逆説は、使徒パウロがつとに力強く論じているところだ。
「十字架のことばは、滅びる者たちには愚かであっても、救われる私たちには神の力です。……神の愚かさは人よりも賢く、神の弱さは人よりも強いからです。」(Ⅰコリント1・18、25)
十字架のキリストの惨めさに、栄光の神の姿が隠されていること。救いをもたらす福音の宣教は愚かに見えること。ドキドキさせられる神の逆説に思いを致したくなる。
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もう一点、『歎異抄』第十二章で唯円が展開する異義批判は、称名念仏は「易行」であって、修行を積んで仏に成ろうとする「難行」ではないというものだ。
◇「一文不通にして経釈のゆくじもしらざらんひとの、となへやすからんための名号におはしますゆへに、易行といふ。」(第十二章)|一文字も読めず、経典や注釈の筋道もわからない人が称え易いようにと考案されたのが、南無阿弥陀仏の名号でありますから易行と言うのです。
易行であることは、これまでも触れてきた親鸞の教えの核心だ。学によらず、行によらずという唯円の異端批判は、法然の「一枚起請文」に通じるものがある。
「一文不知の愚鈍の身になして……智者のふるまいをせずしてただ一向に念仏すべし。」(法然「一枚起請文」)|一文字も読めない愚者と自らをわきまえて……賢者を装ったりせず、ただひたすらに念仏しなさい。
法然の生涯をかけたこの信念を、親鸞が受け継ぎ、唯円の『歎異抄』に浸透しているのだった。学でも行でもなく信心に収束していく日本の宗教の足跡を辿ってくる中で、どこからか主イエスが優しく語られた一言が聞こえてきて、心の中に響きわたっている。
「子どものように神の国を受け入れる者でなければ、決してそこに入ることはできません。」(ルカ18・17)