時代を見る眼 発達障害を知る 296 [2]発達障害と向き合う―“特別”と“差別”―
臨床心理士・公認心理師 森 マミ
人は誰も「特別に」愛されたり、「特別な」対応をしてもらえたりすると嬉しいものです。逆に、「差別」をされると悲しくて、自分の存在価値さえ揺さぶられてしまいます。
「特別支援教育」が2007年にスタートしました。それまでの「特殊教育」からの転換が図られ、「養護学校」は「特別支援学校」と名称を変えました。
発達障害の中でも、十分な対応がなされてこなかった「AD/HD(注意欠如・多動性障害)」や「LD(限局性学習障害)」の子どもたちにも支援が始まり、より多くの子どもがその“困り感”に向き合ってもらえるようになりました。
目指すところは、一人ひとりの教育的ニーズを把握し、そのもてる力を高めるためのきめ細やかな支援です。そして、その支援は幼少期から大人になって自立し、社会参加を果たすまで、あるいは果たしてからも、長期的な切れ目のない支援を目指すものです。ある意味「揺り籠から墓場まで」です。
特別に愛されているという温かな空気感とは違って、「特別扱いされたくない」と言う子どもも少なくありません。「特別支援教育=障害者」というレッテルを恐れているのです。
その恐れは、自分がバカにされて見下されることを恐れると同時に、障害者を自らが差別しているということにもつながっています。
注意力が続かない子どもが「特別支援教室」を訪れて、支援の先生等と一時間だけ一緒に過ごすということもありますが、その教室に出入りすることを絶対に知られたくないという子どももいます。学校現場では、「ガイジ」(障害児をさげすんでいう言葉)という声が聞こえてくることもあります。
子どもたちの差別への恐れは、大人たちが刻んできた歴史に、その源流があるでしょう。知的障害者や精神障害者が差別されたり、監禁されたり、優生保護なる施策が現実に存在した世界。
発達障害の種類や特性を知ること以上に、人の心の奥底に潜んでいる“差別”としっかりと対峙することが重要です。そのとき、“特別”は温かいものとなり、「みんなちがって、みんないい」と心から言えるようになるのでしょう。
“差別”は原罪の結果、原罪に対する“特別”が福音だと知るクリスチャンには、発達障害と真に向き合う使命が与えられているのではないでしょうか。