英語で読み比べると聖書が味わい深い

新たな訳になった、『バイリンガル聖書』が登場。
同じみことばでも、異なる言語で読み比べると、また新たな発見があるはず。みことばの豊かさを、英語を通して感じてみませんか?

日本ホーリネス教団・鳩山のぞみ教会 牧師  宮崎 誉

二〇一七年に『聖書新改訳2017』、二〇一八年に『聖書協会共同訳』と新しい訳の聖書が出ました。このたび英和対訳の『バイリンガル聖書』も新しくなり、英語訳にはこれまでのNIV(New International Version)に代わって、近年とても評判の良いESV(English Standard Version)が採用されました。日本語は『新改訳第三版』から『新改訳2017』になっています。
宗教改革以後、聖書は各国語に翻訳されましたが、それによって原語の意味をどう解釈するか、多様な可能性を読み比べられるようになりました。『バイリンガル聖書』は日本語と英語の翻訳を読み比べて、意味を何倍も味わえる便利な聖書です。
たとえば、ルカの福音書10章25節以下の「よきサマリア人」の譬えの箇所。イエスさまに律法学者が、聖書の中心テーマはなんですかと質問し、「あなたは心を尽くし、いのちを尽くし……あなたの神、主を愛しなさい」(27節)という旧約のみことばが引用されます。隣の英語に目を向けると、「心を尽くし」が「all your hart」と訳されています。この表現の違いに気づいたとき、「へぇー!」と驚きました。愛を「尽くす」というと、雑巾をしぼるように、一滴も残らずしぼり尽くすような究極の犠牲を伴うからこそ、「愛」なのだろうと感じていたのですが、英語では「オール(すべて)」なのです。もちろん、愛の犠牲は、イエスさまが十字架で表された愛(アガペー)に通じる尊いものですが、私たちの心の「すべて」を神さまに用いるという表現に、温かさを感じます。自分の心に愛の欠けを感じて、「自分は愛を生きられない」と感じる人がいますが、心のすべて(オール)で愛するというときには、弱さも含めて、“まるごとの心”を主に捧げようとする姿なのです。
その後、イエスさまは、だれが愛すべき隣人なのかに気づかせるために、「よきサマリア人」の譬えを語ります。強盗に襲われて倒れている人の脇を、立派な人々が関わりたくないと通り過ぎます。その後サマリア人が通りかかり、「かわいそうに思った」(33節)とあります。英訳では「compassion」です。「コン」の部分が「共に」で、「パッション」は「情感」を指します。あなたの痛みを私も共に感じるという意味合いで、「同情」とか「共感」と訳されます。民族の壁を乗り越えて、心と心がつながる絆が芽生えたとき、自分の痛みとして、何かしてあげたいという気持ちが起きたのです。
そして、サマリア人は傷ついた人を「介抱」しました(34節)。英語では「care」したと訳します。テンダー・ケア(tender care)は、医療や介護などでも大切な価値観になっています。このサマリア人はイエスさまの愛を譬えている面もあります。痛む人をイエスさまが手当てして、深いケアをしてくださるとは何と幸いなことでしょう。
そして、宿屋に託します。宿屋は教会を譬えているという黙想があります。傷ついた人を自らケアするイエスさまが、教会に「この人をお願いするよ。テイク・ケア(take care)してほしい」と託しているのです。
旧約聖書からは、詩篇23篇を開いてみましょう。「主は私の羊飼い。私は乏しいことがありません」(1節)。主なる神さまが羊飼いで、クリスチャンは主の羊というイメージです。英語では「I shall not want」と訳されます。「ウォント(want)しない」を、普通に訳すと「欲しない」となります。日本の教会が慣れ親しんでいる「乏しいことがありません」とは、ずいぶん響きが違います。バイリンガル聖書を読んでこのようなギャップを感じることがありますが、これがとても意味があるのです。
この二つの訳は同じ事柄を伝えていて、たとえるならば、トンネルのこちら側から入るのと、向こう側から入る違いのようなものです。どちらも神さまによって満たされている充足を意味しています。日本語訳は、満たされているから欠けがないので「乏しいことがありません」と訳します。英語では、満たされているから、「これ以上、神さまの恵みのほかに何を求めるでしょうか」という意味で、「欲しない」と訳します。どちらも、とても味わいの深い翻訳です。
しかし、実際の生活ではニーズだらけです。4節では、「死の陰の谷」を歩んでいて、「わざわい(evil・悪)」にさらされています。しかし、羊飼いが共に歩んでくださるので恐れないと告白しています。
5節には敵対者が登場します。「in the presence of my enemies」と、敵がいる場所に身が置かれています。「enemies」は複数形なので敵は何人もいます。『新改訳2017』は、「私の敵をよそに」と意味を汲み取った訳をしています。敵が近くにいる状況ですが、神さまがもっと確かに共におられるので、「敵をよそに」と、すなわち敵が視野に入らないかのように、主の食卓の恵みに生かされていることを告白しています。
「いつくしみと恵みが、私を追って来るでしょう」(6節)。英語の「follow(ついて来る)」よりも、「追って来る」という日本語訳のほうが活動的な響きです。追いかけっこのように、しつこく追ってきて、走り寄る神さまの恵みから逃げられないと感じます。
その期間は「いのち(ライフ)の日の限り」(6節)と記されますが、英語のlifeには多くの意味が含まれています。
私の友人が留学していたとき、アメリカ人の若者に「ライフ」の漢字を書いてほしいと紙を渡されました。「生活」と書いたら、数日後ほこらしげに、腕に「生活」とタトゥーを入れて戻ってきました。目的を知っていたら、「命」と書いたのに……。
この詩篇23篇の「ライフ」はどの意味でしょう。「生命」「存在」「生活」「人生」など、それらすべての領域において、神さまの恵みが必ず追いかけて来ると、圧倒的な信頼を告白しています。
新しい『バイリンガル聖書』のESVは学問的にも評価が高く、また現代的英訳としても多くの人々に選ばれている翻訳です。以前のNIVは、一九七〇年代前後に広く用いられた英訳ですが、NIVとESVを比較するのも味わいがあります。例として、ヨハネの福音書1章のロゴス賛歌を開いてみます。
「光は闇の中に輝いている。闇はこれに打ち勝たなかった」(5節)。光が闇に「打ち勝つ」と訳しているのがESVで、「overcome(勝利する)」を訳語に当てます。
他方NIVは、この原語のもう一つの訳し方の「understand(理解する)」を採用して、闇は光を理解しなかったという、認識の欠如として解釈します。原語の意味の広さを感じ取れます。
また、NIVの特徴ある訳として知られているのが、ヨハネの福音書1章13節です。キリストの救いにより信仰者が「神の子どもとなる特権」を受ける(12節)。その直後に「人の意思によってでもなく」と語られるのですが、NIVでは、「夫の意思でもなく(husband,s will)」と訳されます。これはギリシア語の「アネール」という大人の男性や夫を意味する言葉を、どちらで理解するかという選択から生じます。NIVは「夫」を訳語に選ぶことで、イエスさまの受肉が、父ヨセフの夫としての願望からではないという、処女懐胎を意図した表現に解釈しています。NIVの特徴ある翻訳で、賛否が分かれた箇所です。
このほかにも、訳された時代の聖書解釈が反映する部分がありますので、すでにNIVをお持ちの方も、ESVも手元に置いて読み比べると、さらに味わい深さが広がります。
いろいろな翻訳を読み比べると、聖書のみことばが泉のように湧きあがる潤いを感じます。「私の杯は あふれています(my cup overflows)」(詩23・5)。あふれてこぼれ落ちる主の恵みの泉として、『バイリンガル聖書』を用いてみてはいかがでしょうか。