『歎異抄』と福音 最終回 主上臣下、法に背き怨みを結ぶ
主イエスの目撃者ヨハネは「イエスが行われたこと……の一つ一つを書き記すなら、世界もその書かれた書物を収められない」(ヨハネ21・25)との感慨をもって、筆をおいた。親鸞の聴聞者唯円は『歎異抄』をこう結ぶ。
◇「古親鸞のおほせごとさふらひしをもむき、百分が一、かたはしばかりをもひいでまいらせて、かきつけさふらふなり。」(結文)|往年の親鸞様が仰せられた趣の百分の一、その片端ほどを思い出して書きつけただけです。
福音書記者との印象的な類似を示して、唯円は『歎異抄』を締めた。この後、法然一門の弾圧の記録である「付録」があり、蓮如が「奥書」を付けた。滅多なことで見せるなと蓮如がこの書を封印したことは、連載当初に触れたので、親鸞の人生に画期をなした弾圧に目を向けよう。
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都人の注目を集めた法然の念仏宗に対し、旧来の比叡山延暦寺や奈良の興福寺からの圧力は大きくなっていった。事態が急変したのは、権力者である後鳥羽上皇が熊野参りに出た間に、上皇の寵愛する女官二名が念仏宗に出家した事件からだった。若い僧侶が女官を惑わしたとも風聞され、激怒した上皇は関係した僧侶四人を死罪に処し、法然と弟子七人を流罪とした。親鸞は流罪者の一人だった。
熊野参詣は貴賤や男女を問わず「蟻の熊野詣で」と言われるほどの賑わいだった。天皇上皇は后や御付きを連れて京から熊野まで往復六百キロを巡礼し、後鳥羽院は二十四年の在位中に二十八回も行った。院政の敷かれたこの時代、死刑の記録は三百年ほど皆無だったという。あるべき量刑もせず、いきなり僧侶の首を斬る沙汰は尋常ではなかった。
『歎異抄』の「付録」には「無実風聞によりて罪科に処せらるる」とだけ記されているが、見過ごせないのは、連座した親鸞自身が主著『教行信証』の「後序」に、後鳥羽上皇の横暴を正面から非難していることだ。そこには世俗権力を超える宗教に生きる親鸞の姿がある。
◇「主上臣下、法に背き義に違し、忿りを成し怨みを結ぶ。これに因りて、真宗興隆の大祖源空法師ならびに門徒数輩、罪科を考えず、みだりがわしく死罪に坐す。あるいは僧儀を改めて姓名を賜うて遠流に処す。予はその一なり。しかればすでに僧にあらず俗にあらず。この故に禿の字を以て姓とす。」(親鸞『教行信証』後序)|後鳥羽上皇及び土御門天皇と家臣らは法に背き、道義に反して、怒りを表し、恨みを抱いた。このために真の仏教を興した祖師法然と門弟数人は、量刑の手続きもなく、無闇やたらに死罪とされた。あるいは、僧籍を剥奪され俗名を与えれて流罪にされた。私はその一人だ。そうであれば、私はもはや僧侶でもなく、俗人でもない。このことのゆえに、禿の字をもってわが姓とする。
親鸞は切っ先鋭く、事は後鳥羽上皇の私怨であり、無法な断罪であったと、最高権力者を躊躇なく糾弾している。「禿」は、剃髪した僧侶が髪を伸び放題にした様を言う。親鸞はこの後、「愚禿」と自称するようになる。
「善人なおもて往生をとぐ、いかにいはんや悪人をや。」『歎異抄』を代表するこの言葉は、こうも読めるだろう。大枚をはたいて寺社詣でを重ねる「善人」でさえ極楽に往けるのなら、徳行など無縁の「悪人」の極楽往生はむしろ当然ではないか。権勢を誇る人間の浅薄な積善など一蹴する、宗教者親鸞の真骨頂をここに見ておきたい。
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「『歎異抄』と福音」の連載を二年間許され、感謝のほかはありません。名文の誉れ高い『歎異抄』の原文に触れていただきたく面倒な構成になり、短くまとめるために硬い文章にもなってしまいました。我慢して読んでくださいました方々に、ここで御礼申し上げます。
『歎異抄』は、日本人の書いた優れた宗教書です。ほぼ無名のうちに十三世紀を生きた親鸞という人物と、彼の言葉を書き留め、その教えの乱れるのを歎いて一書をなした唯円の仕事は、キリストに出会い得た現代の私たちも敬意をもって学ぶべきであると考えます。
法然・親鸞の浄土教には福音を傍証する価値があると、恩師小畑進(一九二八|二〇〇九)から私は学びました。自己の不実や悪を妥協なく凝視してゆくなら、人は絶対的な救いを希求する。親鸞の教えは図らずも福音の真理性を傍らから証しているのではないかという指摘です。
阿弥陀仏の物語は、仏教の「慈悲」という思想の神話的な表現であることに、私は注目します。その思想が、知識が人間の根本的な課題を解決すると仏教は考えるのです。これ対して、福音はキリストの十字架の死と復活の事実に立つ救いの使信です。それは神の啓示である聖書によって明らかにされるもので、自ら覚り得るものではありません。神を恐れ、信じ受けるべきものであります。(完)