けっこうフツーです―筋ジスのボクが見た景色 第4回 私の教会との関わり①
黒田良孝
(くろだ・よしたか)
1974年福井県生まれ。千葉県在住。幼少の頃に筋ジストロフィー症の診断を受ける。国際基督教大学卒。障害当事者として、大学などで講演活動や執筆活動を行っている。千葉市で開催された障害者と健常者が共に歩く「車いすウォーク」の発案者でもある。
前回までは、私の地域での暮らしについてお話ししました。身体の障害というハンディがありつつも皆さんと変わらない生活を求め、それが与えられていることを理解していただけたと思います。いろいろ恵みが重なり、地域で健常者との関わりの中で暮らすことができていますが、そこでは幼少期からの教会との関わりを無視することはできません。
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私は、二十代の頃に障害者運動に加わり、社会との軋轢に悩み、生きづらさを感じている仲間の姿を間近で見てきました。特に私が育った昭和は、「障害者差別」というものが厳然としてある時代でした。社会が成熟しておらず、障害者への無理解ゆえに関わることを拒絶していたのでしょう。また障害者の側も心をかたくなにして、必要以上に敵意に近い感情をもっていました。
私は、幸いそれほど「差別された」という感覚をもつことなく幼少期を過ごしてきました。しかし、地域で暮らす健常者の子どもたちと等しく成長してきたのかというと、そうではありません。小学校入学時はまだ病気の進行度合いも軽く、周りの子どもたちと同じ生活ができましたが、四年生になる頃には歩くのが困難になり、他の子どもたちについていくのは大変だろうとの理由から、学校側から養護学校への転校を勧められるようになったのです。当時は障害のある児童を普通の小学校で受け入れる素地がなかったので、学校から言われれば従うしかありませんでした。
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四年生の二学期から養護学校に移ることになりましたが、それは県内(当時の住まいは熊本県)に数校しかありません。どれも自宅から通学できる距離にはなく、学校と併設している病院に入院して通うことになりました。小学生の子どもが親元を離れ、今まで会ったこともない子どもたちと共同生活をするというのは大変な試練です。親元から引き離されるだけではなく、住んでいる地域からも引き離されることになります。
「地域との断絶」から脱却して、普通の子どもたちと同じ学校生活を取り戻したのは高校入学時でした。五年半の長きにわたって、他の子どもたちや地域の大人たちとの関わりがないというのは十分ハンディになり得ます。しかし私の場合、養護学校から普通高校への移行がスムーズにできました。それは私が教会に通っていたことと無関係ではないと思います。
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私にとって教会は、信仰を育む場であるとともに社会との関わりそのものでした。教会学校では障害のないクラスメートとふれあうことができましたし、礼拝には世代や性別を超えた大勢の人が集っていました。キリスト教の根本には寛容の精神があるので、障害があるからといって受け入れないということはないと思いますが、私は中でも恵まれた環境にいました。
教会学校(CS)の時は親の付き添いなしで二泊三日の夏期学校に参加しましたし、教会内での階段移動は教会員の方におんぶしてもらったりしていました。障害のある身体ということで、覚えて祈りを捧げてもらったり、特別に気にかけて関わっていただきました。私は教会という環境で育ったおかげで健常者とか障害者という区別をせず、こだわりなく社会と関わる準備ができたのかもしれません。
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CSから通ってきた教会でしたが、大学卒業後はひとり暮らしを始めて、仕事や遊びで忙しいという理由で足が遠のいていきました。二十代、三十代はほとんど信仰生活から離れていましたが、数年前から再び礼拝に出席するようになったのです。教会員として所属してはいましたが、礼拝には顔を出したことはなかったので、不安な思いでドアを叩きました。ところが、私のことをほとんど知らない皆さんがとても温かく迎えてくださいました。そこではもちろん、障害の有無にかかわらずクリスチャン同士の交わりがもたれます。
離れていたことで、改めて自分は教会に育てられて人生を歩んできたのだと気づきました。信仰生活だけではなく、障害者としてのアイデンティティを形成してくれた教会に感謝しています。