けっこうフツーです―筋ジスのボクが見た景色 第6回 悩みの中にあった大学時代
黒田良孝
(くろだ・よしたか)
1974年福井県生まれ。千葉県在住。幼少の頃に筋ジストロフィー症の診断を受ける。国際基督教大学卒。障害当事者として、大学などで講演活動や執筆活動を行っている。千葉市で開催された障害者と健常者が共に歩く「車いすウォーク」の発案者でもある。
前々回、前回と私の教会との関わりと学校生活についてお話ししました。普通の小学校から養護学校に転校して一度は地域からひき離されたこと、一般の高校、そして大学に進学することで同世代の仲間の元に戻れたことをおわかりいただけたと思います。今回は、悩みの中にあった大学時代後半について書いてみようと思います。
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小学校から大学に進学するまでの時期は、未成年で親の庇護の元にいられたので、本当の意味で自分の人生を歩んでおらず、社会の厳しさにさらされることもありませんでした。学業においても、大学進学までは、机の上の勉強で良い成績を収めさえすれば、健常者の生徒と肩を並べることができたのです。しかし、社会に出るための準備期間でもある大学生になると少し周囲の様相が変わってきます。すべてのことが個人単位となり、大人としての自主的な行動が求められます。また、それぞれが卒業後を見据えて動き始めるのが肌で感じられました。何を目指して社会に旅立つのかを自分で考えて、それを具体的に行動に移すのです。
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その頃の私はというと、大学には入ったのだけれども将来の展望が全く描けない状態でした。それまでは合格するために勉強するというわかりやすい目標があり、言うならば単純な論理で完結する世界でしたが、大学卒業後となると訳が違います。庇護してくれる親も、導いてくれる先生もいない環境で自分を頼りにして道を切り開いて生きていくことを迫られます。そのことを理解できたのはずいぶん後のことになります。大学時代の私には、その準備がまだできていませんでした。授業で与えられる課題をこなすことはできても、人生の課題に目を向けることができなかったのです。
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あえて言い訳をすれば、病気が影響していたということになります。以前お話ししたように、筋ジストロフィー症は完治することのない病気で、その当時は「二十歳までしか生きられない」と言われていました。私はその前提に立って、それより先の人生設計をすることを先延ばしにしていました。しかし、後で振り返ると、障害や環境を言い訳にして努力をしていない自分を正当化していただけだったと思います。
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停滞状態でどちらにも一歩を踏み出さず、卒業までの残り時間を食いつぶしている私をよそに、同級生は明確に目標を定めて、就職や進学の具体的な準備に入っていました。それまでの受験勉強の中では、多少の誤算があっても修正できましたが、人生設計となると話は異なります。その現実に気づき、愕然としました。初めての挫折です。勉強すれば自分でも健常者とも対等に競うことができるという自信はしぼみ、やはり自分は障害者で何もできない存在なのだという思いにとらわれました。
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何も決まらぬまま卒業が近づき、暗澹たる思いでいたときに、手を差し伸べてくれる人が現れました。状況は一変します。私には、大学進学以前からの「自立生活」という夢がありました。家族ではない第三者に身の回りの世話をしてもらいながらのアパート暮らしです。「就職が叶わぬなら」ということで、熊本時代の知り合いに紹介してもらったのが、東京で自立生活運動に関わっている障害者です。その方と参加した介護制度の勉強会で、さらなる出会いがありました。新たに自立生活センターを作ろうとしている初対面の障害者から、「これから自立に関することを学んで、ひとり暮らしをしながら自立生活センターにスタッフとして通わないか」との誘いを受けたのです。まさか生活と仕事の両方が一度に得られるとはつゆほども思わず、二つ返事で活動への参加を決めました。高校や大学への進学と同様に、人との出会いや関わりに救われたのです。
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悩んだり、孤独を感じたりすることもあった学生生活でしたが、当時の社会状況の中で障害のある私を受け入れて、他の学生と同じ学びの環境を提供してくれた国際基督教大学には、たいへん感謝しています。