リレー連載 牧師たちの信仰ノート
渡辺信夫(わたなべ・のぶお)
1923年、大阪生まれ。
日本キリスト教会東京告白教会元牧師。
第十三回 時が来るまで
私が生まれる前の年の一九二二年に、父は洗礼を受けた。父はこの次男(私)を、信仰の男に育てようと決意した。三歳上の長男のことを考えなかったわけではない。長男が生まれたとき、父はまだキリストの福音に接しておらず、教会について何も知らなかったのだ。だから、息子を二人ともクリスチャンに育てようとしていた。
ところが、父が受洗した高槻の講義所は間もなく、ミッションの財政事情、教会員二人ではとても維持できないという事情、それにもう一つの事情が加わって閉鎖され、親たちも子たちも教会に通えなくなった。幸い、二年くらいの後、父は名古屋に転勤し、一家はそろって教会に通うことができるようになる。
名古屋での一家の信仰生活を語る前に、高槻の講義所の閉鎖の事情について、まだ子どもだった私が語るのは適切ではないのだが、父にとっては信仰の躓きになりかねない事件であった。詳しい事情はまったくわかっていないのだが、幼い私にとっても、大人が何か大きな決意をしたようだ、という感じはある。その事情は、やはり語っておかねばならない。教会のことだから、外部に聞かせたくないのだが、述べておいたほうがよいのではないかと思う。
父は、自分に洗礼を施したH牧師に対し、教会組織の上層部から、奥さんを離縁しなければ牧師は務まらないぞという圧力がかかったことを知ったようだ。H牧師はそれを断固拒否し、奥さんを離縁するよりは牧師職を辞したのである。父は、H先生は立派な牧師だと尊敬し、生涯、年賀を絶やさなかったし、時々挨拶に行っていた。もちろん、先生は信仰者であり続けた。
幼い子に本当のことがわかるはずはないではないか、と言われるなら、そのとおりなのだが、その後何十年経った今も私の考察は変わっていないのである。子どもにわからぬながら、大人には何か大きいことをする力があるらしいという清潔感とでもいうのか、頼りになる印象を受けたのである。教会内部、特に上層部―その名称はわからない―が世間体がよくないという理由だけで事柄の真偽を調べもせず、「変な噂が流れるようなことでは、伝道にとって不利だから処分すべきだ」という俗見が、多いとはいえないが、時々聞こえる。
H先生のケースがこの冒涜に該当すると、私は後年つかんだのである。これで主の建てたもうた教会の秩序が冒涜されていないといえるのか? 再審すべき事件ではないか? 気になるが、いやな話はここでいったん閉じておこう。
名古屋の話に戻るが、子どもである私はずっと遊んでばかりいた。何かの努力を重ねて、向上を目指すというようなことは全然なかった。そのようなわきまえがなかったことは確かだが、それでよかったのだと今にして思う。神は「もっとやれ、もっとやれ」とは言われなかった。みことばが聞こえてきたのではないのだが、神は温かく見守っておられた、と解釈すべきだと思っている。
神は、私が働き出すのを待っておられた、と言うのも言い過ぎだろうが、遊ばせておいて、時が来るまで成長させてくださったのだ。あるいは、成長の時間の必要を知っていて、待っておられたと言うべきだと私は信じている。
それで、私が神のためにお役に立つ仕え人になれたのか、と問われると、答えに窮するのだが、これまで役に立たなかったときの数々を逆算してみると、あのときのこの遊びが今、役立っているではないかということに落ち着く。
実際のことを言えば納得してもらえるかと思うが、私の場合、一人前に働けるようになるまで時間がかかっている。若いうちから伝道者たらんと志して神学校に学んでいる方々に失礼なことを言っているとすればお許しいただきたいが、時間がかかる場合がある。その分、無駄ではない。
名古屋での両親の信仰生活は安定していた。母はそれまで教会に行かなかったのに、熱心に通って洗礼を受けた。名古屋教会の吉川牧師の指導力による。父は、大阪の本社に戻るときには自宅を伝道所にしようと計画し、いろいろ準備していた。父としては、かつて講義所の解散決議をした地で、同じ過ちをくり返してはならないと心に決めていた。その日は早く来た。
昭和天皇の即位のとき、町に花電車が走った後、父はいったん東京の義理の父(私の祖父)の家に行き、父の姉のいる下妻にも寄って、高槻の本町にある二階家の建物に入った。父は日曜学校を開くには、それだけの広さが必要だと考えたからだ。やがて、隣町の茨木にある教会の若い伝道師だった杉山先生が、週に一度、我が家で祈祷会を導きに来てくれるようになった。