牧師たちの信仰ノート 第十四回 嵐の時代の始まり

渡辺信夫(わたなべ・のぶお)
1923年、大阪生まれ。
日本キリスト教会東京告白教会元牧師。

高槻で日曜学校を始めたとき、教師を務める人は父と母のほかにいない。信者のいない町だから当然だ。だがクリスマスには、宣伝もしないのに、子どもだけでなく大人まで来る。そして、次の日曜日には来ない。待ち受ける側には虚しさが残る。それが特に嫌なことではなかったが、その季節が過ぎれば、ポツポツ子どもは来るが、顔見知りの子たちばかりだった。町に一軒しかないクリスチャン家庭に対する嫌がらせなどはなかった。
翌年だったと思うが、父はボーナスをはたいて、リードオルガンを買った。そのことは、家計の赤字の埋め合わせを考えていた母にはショックだった。それでも、田舎の町ではめずらしいから子どもは増えた。前回の最後に触れた杉山先生が水曜日の祈祷会に来ることになったのは、その翌年のことである。先生は未婚であったから、夕食は我が家でとり、一番下の子とは歳が離れているのに「ノブチャン、ノブチャン」と相手にしてもらった。私が大人になり、戦争から帰ってきたあとでも、まだ「ノブチャン」だった。
先生は父に熱心な指導をしていた。英語の原書を読ませるのは無理だったはずなのに、それを実行し、父は従っていった。無学歴といってもいいほどの信徒に、原書で聖書注解を読ませるとは常識外れだ。それでも、先生が来られない日があると、父が代わって聖書を講じる。そのためには、注解書を読んでおかねばならなかった。
その数年後、特別な意識などなしに父の本棚から本を引き出し、わからぬままに見ていた。そのおかげで神学書に接近できたとは思っていないが、後日、読めもせぬ難解な書物を私がはばからず読んでいたのは、神だけが知っておられ、将来のことは私にはまったく予想できなかった。
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先を急ぐことにする。戦争の時代に入ってしまうが、一九四〇年に太平洋戦争が始まり、私は海軍に入る。陸軍では残虐行為を行わせられるという話が流布していたので海軍にしたのだ。クリスチャンがいじめられるという噂も陸軍を避けた理由である。自分が殺される分には我慢するとしても、他者を殺すことはできないので逃げた。軍艦に乗って危険な目にはずいぶん遭ったが、人を殺すことも自分が殺されることもなく、帰って来た。戦争反対の行動を取る勇気も行動力もなかったことを恥じて、生き残った命は平和のためにしか使わないと神に誓い、それは一応貫いた。だが、事が起こらなかっただけである。それでも、平和のために尽くすのはキリスト者の務めだと信じて行動してきた。
戦争は嫌いだが、同じ艦に乗って、そこに身を託している人たち、「死ぬときは一緒なのだなあ」と思いつつ、毎日接していた純朴な部下のことは今も忘れない。いろいろな人間との接触があったからこそ、いろいろな人との付き合いができるようになった。
戦争の具体的な話は今回はしないが、戦争の中で見えてきた自分自身の内なる貧しさ、いい加減さについては、それこそが私を変えさせた転換点であるから、語らなければならない。
戦争で死ぬことは誰も嫌だ。お国のために喜んで死ぬのだと格好をつけて言う人がいたことは事実だが、本心そう思うかどうか? 私も当然嫌なのだ。
だが、人の嫌がる戦死を引き受けるならば人助けになる。私は初めそう考えてみた。当時、あるキリスト教の雑誌がそういう記事を載せた。投稿したのは名を知られた牧師であったが、私は時局に迎合しただけの読むに足りない雑文だと感じた。
しかし、偉そうなことを言ってはいけない。自分の過ちに幸いにも気づいた。戦争の現場に出る時が来た。
夜半に鹿児島を出航し、沖縄に向かう。湾口はるか南に富士山にやや似た形の屋久島が見える。奇形というか美形というか、うっとりする。そこで気づく。私が沈没するのはこういう光景の只中においてなのだな、と。見えてくる光景に若干の「添え物」を添えて見る。右手から左手に向けて海流が太陽光線を反射させながらゆったりと流れていく。そこにもう一点の「添え物」。雷跡、そして轟沈、一巻の終わり。これは想像にすぎないのだが、後日何度か見た実物の場面も同じだった。ようするに、あまりにもそっけない悲劇場面。意味づけの余地もない。意味づけは嘘になる。魚雷命中は二度経験したが、爆破にすぐ対応しなければならない措置があるから、驚き慌てている暇はなく、災害は乗り越えてしまった。
魚雷命中の現場はさすがに忘れられないが、時間つぶしだから省略しよう。結局、沈没はしなかったのである。