けっこうフツーです 筋ジスのボクが見た景色
けっこうフツーです 筋ジスのボクが見た景色
黒田良孝
(くろだ・よしたか)
1974年福井県生まれ。千葉県在住。幼少の頃に筋ジストロフィー症の診断を受ける。国際基督教大学卒。障害当事者として、大学などで講演活動や執筆活動を行っている。千葉市で開催された障害者と健常者が共に歩く「車いすウォーク」の発案者でもある。
第8回 試練続きの二十代
念願の自由を手に入れた自立生活でしたが、「二十歳までの命」の限界を超えた二十代は、試練の連続でもありました。
自立生活二年目には心臓の機能が悪化しました。筋ジストロフィーの症状は全身の筋肉に及ぶので、筋肉の塊である心臓への影響は避けられません。筋ジストロフィーという病の主な死因は未だに呼吸不全です。人工呼吸器の開発により、呼吸機能は代替できるようになりましたが、心臓については根本的な解決策が見つかっていません。同年代の患者と比較して身体機能が衰えていない、と自負していた私は二十歳の壁を越えることの重大性が認識できていませんでした。医療による管理下から逃れることを出発点としている自立生活運動の中にあって、いつの間にか体のことがないがしろになっていたのです。
自由な生活を謳歌している中で、食生活も乱れていきました。肥満と体重の増加が心臓に負担をかけるとも知らずに。当時は、自由の代償として、自分を律しなければいけないということが理解できていませんでした。また、自立生活の孤独に耐えることができず、食べることに逃げていたのかもしれません。
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あれは前日の夜に雪が積もった三月の朝のことでした。一週間前からひいていた風邪が治らず、下がらない熱を市販薬でしのいでいました。何気なく体の姿勢を座位から横たえた時に、突然、耐え難い胸の苦しさを覚えました。息がうまくできないことに恐怖を覚え、そのまま救急車を要請しました。担ぎ込まれた病院で重度の心不全という診断が下されました。かなりの胸水がたまっており、即刻入院しての絶飲食が必要と説明されます。不摂生が原因であることは明らかでした。
小学生の頃に療養所に入れられて以来の入院、しかも深刻な事態ということで、状況を理解して心の整理をつけるのに時間がかかりました。三か月間の入院で胸水を抜き、自立生活のアパートに戻ることはできましたが、私を取り巻く環境は一変しました。心不全の再発を防ぐために塩分が制限され、一日に摂取してよい水分量もずいぶん絞られました。
何よりも苦痛だったのは体力がガタっと落ち、外出を控えざるをえなくなったことです。「筋ジストロフィーなのに健常者と変わらない生活ができる」というのがそれまでの私の誇りだったのに、自分の弱さを認めなければならないことの精神的ショックは今でも忘れません。
「傲慢さ」どころか全ての自信を失い、実家に帰ることばかり考えました。しかし、ヘルパーがついている生活を捨てれば、何もできない自分になるのが目に見えていたので、その時は踏みとどまり、時が解決するのを待ちました。
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一つの壁を乗り越えても、また次の壁が立ちはだかります。心不全への対応が一応の安定を見た頃に、呼吸機能が低下してきました。夜間に呼吸が浅くなるので、酸素が取り込めなくなり、起床時の息苦しさが顕著になります。呼吸を整え活動できるようになるのに、午前の全ての時間を費やすこともありました。
そのほか食事中や入浴時など、酸素不足が生じる頻度が高くなり頭がボーっとするようになったので、鼻マスク式の人工呼吸器を使うことになりました。はじめは夜間のみでしたが、ほどなく症状が進み二十四時間手放せなくなりました。酸素が体に巡り、楽にはなりましたが、ずっと機械に繋がれていなければならないので移動する際の工夫が必要になったり、ヘルパーには人工呼吸器管理のための研修を受けてもらったりという対応が求められました。
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二十四時間、人工呼吸器を使用しても呼吸苦は解消されず、体調が悪い状態を抱え続けました。年の半分は入院していたし、食欲不振で体重が四十キログラムを切るなど体力の低下に歯止めがかかりません。
健康面の対応にエネルギーを割きすぎて、自立生活の意味さえ見失っていたと思います。「あの輝いていた日々は戻らないんだ」と悲嘆にくれ、「終わりの見えない闘いをいつまで続けなければならないのか?」と問いかける毎日に精神は疲弊しきっていました。