書評Books ことばに表せない「聖なる時間」をことばに表すとは、こういうことなのか
ことばに表せない「聖なる時間」をことばに表すとは、こういうことなのか
『「霊性の神学」とは何か』著者 篠原 明
『隣に座って スキルス胃がんと闘った娘との11か月』
中村佐知 著
B6判 1,700円+税
フォレストブックス
この本の原稿を読む前に、一つのことばが心に浮かんだ。それは、「至聖所」。神様に召された者しか入ることが許されない至聖所。聖なる神のご臨在の前に招かれている感覚。その予感は当たっていた。
ミホさんは闘病中に見舞ってくれた一人ひとりに対して感謝と愛情を表してゆく。佐知さんが娘に抱く愛おしさが全ページににじみ出ている。
ミホさんに寄り添うことは「隣に座って」いることであり、そのように娘と過ごす時間はすべて神の御手の中にある「聖なる時間」であった。本書を読んでいると、ミホさんの隣に座っている佐知さんが、不思議と私の隣にも座っていてくれるような気持ちになる。
ミホさんと佐知さんの心に留まったみことばと祈りが随所に記されている。みことばを黙想する中で、祈りがどのように導かれていったのかを見ると、「聖なる時間」の中には神との格闘があり、しかもその中で確実に神のご臨在が現されていたことがわかる。箴言三章二七~二八節に基づく祈りは、その極致だ(本文一三七頁以下)。
わが子を看取るという究極の痛み。私は同じ経験をしたことがない。でも、もし同じような痛みを通らなければならないとしたら、佐知さんに連絡するだろう。佐知さんは「隣に座って」耳を傾けてくれる。痛みを知る者として。
本書を読み終えたとき、イエス様の足に香油を注いだ女性の箇所を思い出した。彼女がしたことを、イエス様は「良いこと」(英語訳では「美しいこと」)と言ってくださった(マルコ一四・六)。しかも、このことが彼女の記念として世界中に伝えられる。
ミホさんが生きた二十一年間の生涯は、ナルドの香油のように「美しいこと」として、福音とともに世界中に証しされる。そのためにこの本は誕生したのかもしれない。
この本を、悩み、苦しみ、病、疑いなどさまざまな試練の中にある人、神の聖なるご臨在を渇望しているすべての人にお薦めしたい。