特集「教理」とは何か?教理を学ぶ意味と喜び

特集「教理」とは何か?

「教理」を学ぶと、信仰生活にどのような影響があるのか? この秋の新刊『キリスト教教理入門』(ミラード・J・エリクソン著)の出版に合わせ、とっつきにくいと思っている方にもわかりやすく、「教理」について考えてみます。

教理を学ぶ意味と喜び
神戸改革派神学校教授  袴田康裕

私たちキリスト者は、なぜキリスト教教理を学ぶ必要があるのでしょうか。私は少なくとも次の三つをあげることができると思います。
第一は、個人的な証しの必要からです。もし私たちが、自分が何を信じているかを明確に知っていないならば、決して自分の信仰を証しすることはできないでしょう。「聖書の神様とは、どういう神様なのですか?」「聖書は、人間とは何だと言っているのですか?」「聖書は、この世というものをどうとらえているのですか?」こういった疑問を投げかけられたとき、私たちはそれに的確に答えることができるでしょうか。「どうやってクリスチャンになるのですか?」と問われたとき、私たちはどう答えるべきでしょうか。

伝道の使命は、私たち一人一人に与えられています。その使命に応えるには、私たちが基本的な教理に通じていることが不可欠です。
また、私たちがなぜ信じているかということを知ることも大切です。私たちは理由もなく信じているのではないからです。ペテロが言うように「あなたがたのうちにある希望について説明を求める人には、だれにでも、いつでも弁明できる用意」をしている必要があります(Ⅰペテロ3・15)。その意味でも、教理の知識は大切です。
第二は、個人の信仰の養いのためです。私たち自身の魂のために、私たちは神の言葉の全内容を知る必要があります。私は、個人の魂の悩みの多くは、キリスト教教理の無知やその適用の誤りに起因する場合が少なくないと思っています。
私自身、大学生の頃、救いの確信が持てず深く悩みました。しかし、聖書の教える救いの根拠の問題や、救いの確信と救いとの関係の問題などは、宗教改革の時代においても深く論じられたものです。その中で聖書的教理として言葉が整えられ、カテキズム(教理問答)や信仰告白が生まれました。それゆえこれらの言葉は、しばしば牧会的配慮に満ちています。私自身が経験的に知っているように、教理を通して聖書の教えの深さがわかることによって、私たちの魂は本当の安らぎを得ることができるのです。
第三は、教会形成のためです。キリスト教教理は個人の魂の養いや伝道にとって重要であるだけでなく、教会の土台を形成するものです。教会の一致は本来「信仰」しかありません。しかし、その一致点が不明確であれば、教会は「人間」による一致に傾き、人間の支配にならざるを得ません。けれどもそれは、イエス・キリストを主とする教会にとって、望ましいことではないでしょう。聖書の上に立つ教会は、その聖書の教えが何であるかを言葉によって確認し、その一致の上に立つ必要があります。その意味でも、聖書の教えの要約である教理は重要です。とりわけ、教会のリーダーや役員に必要な一つの条件は、正しい教理理解なのだと言えます。

最後に「教理とは何か」ということに触れておきます。教理は確かに、聖書の教えを論理的・体系的にまとめたものだと言えるでしょう。教理には、それ自身に源を持つ権威はありません。しかし、それが聖書に基づいているならば、その限りにおいて従属的な権威があると言えます。だから、それは教会の土台となり得るのです。
そして、教理そのものは歴史を含んでいません。しかし、その背後には歴史があります。一つの教理が生まれたとき、そこには必ず論争がありました。
たとえば、イエス・キリストは教理の用語では二性一人格と表現されます。カルケドン信条の表現で言えば、イエス・キリストの神性と人性は「混合なく、変化なく、分割なく、分離なく」と言われます。これを言葉だけ聞けばよくわかりません。どうしてこういう表現が生まれたのか。
それは、決して言葉遊びや思弁から生まれたのではありません。イエス・キリストが真の救い主であられるとはどういうことなのかという、教会にとって、立つか倒れるかの真剣な問いの中から、そして聖書に基づく激しい論争から生まれたのです。
聖書に問い続けた教会の歴史がわからなければ、教理の言葉はわかりません。しかしその歴史がわかれば、教理の本当の意味を知り、聖書が教えるイエス・キリストの救いをますます豊かに語ることが可能になります。
天に昇られたイエス・キリストは聖霊を送り、聖霊の導きの中で教会は歩んできました。聖霊の御業は、教理形成の中にも働いています。それゆえ私たちは、教理を学ぶことを通して歴史に働かれた聖霊の御業を知り、何より聖書を深く知らされて、喜びに満たされるのです。教理を学ぶことの意味と喜びがそこにあります。

 

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