信じても苦しい人へ 神から始まる新しい「自分」第6回 「愛する」ってどういうこと?

中村穣 (なかむら・じょう)
2009年、米国のウエスレー神学大学院卒業。帰国後、上野の森キリスト教会で宣教主事として奉仕。
2014年、埼玉県飯能市に移住。飯能の山キリスト教会を立ち上げる。2016年に教会カフェを始める。
現在、聖望学園で聖書を教えつつ、上野公園でホームレス伝道を続けている。

 

御父は、私たちを暗闇の力から救い出して、愛する御子のご支配の中に移してくださいました。
コロサイ人への手紙一章一三節

聖書には互いに愛し合いなさいとあります。しかし、私たちがお互いにうまく愛し合うために、イエス様が十字架にかかってくださったわけではありません。イエス様の十字架はもっと深い愛です。私たちがまだ罪人であったときに、それでも私たちのために死んでくださった愛です。私たちが主のもとへ帰り、神の家族となるためです。
今回は、そのことを見ていきたいと思います。

教会に、もっと人を愛したいと真剣に悩んでいる青年がいます。人を愛そうと一生懸命努力しています。しかし、心には愛とは違う感情がどうしても残るというのです。憎しみがあったり、愛しているといっても、結局自分のためなのではないかと思ったり……。
そんなとき、彼に話したことがあります。お恥ずかしい話ですが、わが家の夫婦喧嘩話です。一番話を聞きたいと思っている相手であるはずの妻なのに、実は一番話を聞くことができません。理解したいと思っているのですが、大切な相手なだけに、苦しんだりしていると「そうだね」と同意できず、「でもさ」と言いたくなってしまいます。妻は私に話を聞いてもらいたいだけなのですが、私は話を聞いているうちに妻の気持ちを受け取ることよりも、「こうしたほうがよいのでは?」と解決策ばかりを考えてしまい、妻を傷つけてしまうのです。
しかし、妻を怒らせたからといって、そこに愛がないわけではないのです。夫としての言い訳ですが、愛しているからこそ、口を出してしまうのです。自分の最愛の妻を守ろうとする思いがそこにあるのです。妻が傷ついていると私もつらくなるので、つい口が出てしまうのです。
教会の青年にも、憎しみが心に残るのは友だちを愛しているからではないだろうか、と伝えました。愛しているからこそ、つい気になってしまうのではないかと思うのです。うまく愛せないからといって、自分は愛がない人間なんだと自己卑下することは間違いです。マザー・テレサも、愛の反対は無関心であると言っています。愛があるから悩むのです。
ここにも、神から始まる「新しい自分」の入り口があります。愛せないと悩むのではなく、本当の愛がどこから始まるのかを知るチャンスです。二つのことに注目したいと思います。
まず一つ目は、「あなたに愛がないことを教えてくれているのは神ご自身である」ことを知ることです。神様は、あなたがうまく愛せないからといって、「だめだね、愛が足らないね」と責めたりしません。本当のところを言えば、私たちは自力で、自分の愛のなさに気づくことすらもできないのです。だから、「愛が足らないなぁ」と感じている時は、「わたしの力は弱さのうちに完全に現れる」と、イエス様が言われる恵みが注がれている時と言えます。
二つ目は、「自分に愛がないことを知る体験から、本当の愛が始まる」ということです。本当の愛は神様から始まることを、イエス様との信頼のうちに知る必要があります。
愛がないと悩むのは、自分の中に愛を見つけようとしているからです。そうではなく、愛のなさを知ることこそが、神様へ向かう、へりくだりの道なのです。神様は、愛のない私をも必要とし、「わたしのもとに来なさい」と呼んでくださっているのです。
私たちは闇の力から救い出され、御子の支配下に移されたことをいつも覚えていたいと思います。イエス様は、うまくできたかどうかと考える成果主義の社会から、私たちを救い出してくださったのです。どうしてうまく互いに愛し合えなかったのかと、この世の価値観で悩むのではなく、私たちはうまく愛せない、弱い、愛の足りない自分自身として主のもとにくだりましょう。
そのとき、私たちは、父なる神とイエス様が互いに愛し合う本当の愛のうちに、自分が生かされていることを知ることができます。たとえ、私の中に愛がなくても、神様の愛のうちに生かされているので、お互いを愛し合う本当の愛を現すことができるのです。
それは、私が愛をもっているからではありません。逆に、私にはその愛がないことを知って、十字架の元にヘりくだり、愛のない私がもう一度、イエス様と出会うことで、神様の愛を現すことができるようになるのです。

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