日常の「神学」 今さら聞けないあのこと、このこと

日常の「神学」 今さら聞けないあのこと、このこと
第1回 「神学をする」とは?
岡村 直樹
横須賀市出身。高校卒業後、米国に留学。トリニティー神学校を卒業し、クレアモント神学大学院で博士号(Ph.D.)を取得。2006年に帰国。現在、東京基督教大学大学院教授、日本福音主義神学会東部部会理事、hi-b-a責任役員、日本同盟基督教団牧師。

「神学」とは何でしょうか。「神学」は英語でtheology と書きます。それはギリシア語のtheos(神)とlogos(理性、または言語)という二語によって構成されている言葉です。すなわち「神学」とは、「神に関する理性的・言語的な学びである」と定義することができます。
理性的・言語的といった言葉が並ぶと、ぐっとハードルが高く感じられるかもしれませんが、「神学」は決して、高尚すぎて手の届かない学問ではありません。むしろ「神学」は、すべてのクリスチャンがすべきことです。「神学をする」とは、耳慣れない表現かもしれません。それは、いったいどういうことでしょうか。
有名なクリスチャンの漫画家で、スヌーピーが登場する『ピーナッツ』シリーズの作者、チャールズ・シュルツは、こんな四コマ漫画を描いています。
家の窓から心配そうに外の大雨の様子を見ている姉のルーシーが、弟のライナスにこう語りかけます。「ねえ土砂降りの雨を見てよ。世界中が大洪水になっちゃうんじゃない?」 するとライナスはこう返します。「そんなことは絶対ないよ。だって創世記の九章で神様はノアに、もう二度と洪水は起こさないと約束され、その証拠に虹を架けられたんだよ。」 姉のルーシーは、安堵の表情を浮かべてこう言います。「あなたの言葉に安心したわ。」 するとライナスはさらにこう返します。「良い神学には、そういう効果があるものさ!」
ライナスは、彼の持つ聖書の知識を、日常生活で起こる出来事にあてはめ、それを解釈し、姉のルーシーに安心を提供しました。これが「神学をする」ということです。それは決して複雑で難解なことではありません。身の回りで起こる出来事に疑問を感じたとき、また進むべき人生の道の選択で悩んだときに、自ら進んで聖書を開くこと。その疑問や選択について聖書は何を語っているのか、自分はどうしたらよいのかを真剣に考えること。そして導き出された答えに従って歩むこと。これが「神学をする」ということです。
言うまでもなく、「神学」には深みがあります。ヘブル語やギリシア語といった聖書言語に精通していることや、聖書の書かれた時代の背景を熟知していること、また有名な歴史上の神学者たちの書いた注解書を読破することも、「良い神学をする」大きな助けとなります。しかしそのようなことができないからといって、「神学をする」ことを諦める必要はありません。いや諦めるべきではないのです。
一六世紀に起こった宗教改革の重要な教義のひとつに「万人祭司」があります。それは信仰者一人一人が、祈りと礼拝をもって神の前に進み出ることができるという特権であり、また責務のことです。そこには、各自が聖書を読み、それを解釈し、日々の生活に生かすということも含まれています。宗教改革者たちは、「万人祭司」の教義に反対する当時の教会権力と命をかけて闘いました。また特にマルティン・ルターは、皆が聖書を読めるよう、わかりやすい一般的なドイツ語に聖書を翻訳する作業に心血を注ぎました。なぜなら彼らにとって、「神学をする」ことは、クリスチャンの信仰のあり方の根幹に関わることだったからです。
たとえ有名な神学者のように、旧約聖書の始めから新約聖書の終わりまでを組織的に、また網羅的に解釈することはできなくても、日常的に身近な題材について「神学をする」ことは、クリスチャンにとって必要不可欠な信仰の営みなのです。
もちろん信仰者は各自、自分勝手に「神学をしてもよい」ということでは決してありません。聖書にも、「ただし、聖書のどんな預言も勝手に解釈するものではないことを、まず心得ておきなさい」(Ⅱペテロ1・20)と戒められています。では、聖書の言葉はどのように解釈されるべきでしょうか。そのために心得ておくべき、特に大切なことは以下の三つです。
①神様への愛と礼拝、そして、謙遜と恐れの心をもって聖書の言葉に近づくこと。
②正しい聖書の理解、そして解釈が与えられるよう、聖霊なる神様のお働きを切に祈り求めること。
③神様が与えてくださった信仰共同体である教会の兄弟姉妹や、リーダーである牧師の意見を尊重すること。
「日常の神学」シリーズは、普段あまり気をとめず、当たり前のように受け入れられている教会生活や信仰生活上のさまざまな事柄にもう一度目を向け、それらについて今日的視点をもって「神学をする」ための連載です。
さあ、一緒に「神学をしましょう!」