特集 ティーンズに伝わる言葉とは? 行動の伴う“ことば”

行動の伴う“ことば”

hi-b.a.(高校生聖書伝道協会)スタッフ  水梨郁河

私たちが生きる現代を見渡せば、広告は目を引くために過激な言葉を使い、インターネットは言葉のゴミの掃き溜めとなり、若者はSNS上の会ったこともない人の言葉に心をかき乱されている。

いまや、言葉は一部の優秀な知識人だけが読み書きするものではない。幼い中学生でさえ、あらゆる言葉を使って自分のことを全世界に発信することができるようになった。これほどまでに言葉が豊かに溢れ、言葉が蔓延している時代がいまだかつてあっただろうか。

神が私たち人間を神のかたちとして創造し、“ことば”を授けたとするならば、神の意図したことばは、この地上にどれほどあるのだろうか。

なぜ、若者はSNS中毒となるのだろうか。なぜ、食事中でもLINEを返す手が止まらないのだろうか。

繋がりを絶たれるのが怖いからだろうか。それもそうだ。しかし、若者は探しているのだ。自分を生かし、自分の命の源となる救いの言葉をずっと探しているのだ。掴んだつもりがこぼれ落ちる言葉ではなく、明日には変わってしまう友人の言葉でもなく、永遠に変わることのない真実な“ことば”を。ホッカイロのように一時的に自分を温めてくれる言葉ではなく、心の底から自分を満たすリアルな“ことば”を。

高校生たちと「最近自分の心に響いた言葉」という題でディスカッションをした。すると、ある高校生は偉人の言葉、ある高校生はメッセージ中に語られた言葉だと言った。なぜ、その言葉が自分の心に響くのだろうか。彼らは、「その人の苦しみの中から出た言葉だから」「その人の生き方が迫ってきたから」と答えた。

現代の高校生の心を打つ言葉とは、もはや手の込んだポエムでもなければ、修辞法を駆使した手紙でもない。その人の存在が垣間見える言葉だ。「言葉を通してその人が見える。」それが高校生の心に届くのだ。

若者は、もはや前言撤回を繰り返す大人の言葉を信じてはいない。ニュースフィードに流れ去るSNSの投稿に心は打たれない。
心を打つ言葉とは、一人ひとりが持っている「リアルな言葉」だ。それは、「現実を伴う言葉」と言い換えてもよい。「祈っているよ」ではなく、「一緒に祈ろう」と現実に影響を及ぼす“ことば”であり、「応援しているよ」と送り出す言葉ではなく、横を歩いて「頑張ろう」と励ます現実を共に生きる“ことば”なのだ。

神が「光あれ」と言えば、光ができた。これこそ、言葉の本来あるべき姿だ。「愛しているよ」と声をかけるならば愛を示さねばならない。「祈っているよ」と言うならば共に祈るのだ。「応援しているよ」と言うならば、受験の前日に励ましの連絡を送るのだ。言葉だけで終わってはいけない。

言葉の力を信じない若者たちに、リアルな“ことば”が必要なのだ。それは、聖書にただ書かれている文字ではなく、それを体現する私たちだ。みことばを実感させる教会、みことばに徹底して生きる親の姿。具現化される言葉が若者の目にとまり、彼らの心を惹く。

イエス・キリストはそのように歩まれたのだ。行動の伴うキリストのことばに私たちは心を打たれたのだ。だから、キリストのように自分の内側に流れるみことばからブレてはならない。自分の口から出た言葉に反してはならない。

言葉を信じなくなった現代、“ことば”を信じ、そのとおりに生きる者たちの“ことば”が若者の心を打つ。これは、若者文化に精通している必要はない。若者言葉を習得する必要もない。若者に伝えたい言葉のとおりに生きるなら、自ずと若者に言葉が届く。彼らの現実を変える、自分の行動が伴う言葉を届けていこうではないか。
神のことばが若者の心に響く世界を、ここから始めようではないか。