けっこうフツーです 筋ジスのボクが見た景色 最終回 フツーでいられる信仰生活
黒田良孝(くろだ・よしたか)
1974年福井県生まれ。千葉県在住。幼少の頃に筋ジストロフィー症の診断を受ける。国際基督教大学卒。障害当事者として、大学などで講演活動や執筆活動を行っている。千葉市で開催された障害者と健常者が共に歩く「車いすウォーク」の発案者でもある。
かねがね話しているように、私は理想的なクリスチャン像からはほど遠い落第クリスチャンです。
母のすすめで教会学校に通い始め、教会員としてのキャリアが長いだけで、これまで自分から道を求めることはありませんでした。みことばに触れても、知識として頭の中に蓄積されるだけで、自分の心で感じて信じるまでには至りませんでした。
私には筋ジストロフィーという不治の病があり、信仰を心の支えにして将来の苦難や重荷が軽くなればとの思いから母は私を教会に連れていきましたが、病があるがゆえに反発して心が離れました。それは、病気や障害のあるクリスチャンのイメージを押しつけられることへのプレッシャーからでした。
キリスト教の世界では、体にハンディがありながらも信仰に固く立ち、立派な人生を送っている方々の美談は枚挙に暇がありません。そういう方々のような信仰をもちたいと思ってみても、自分自身の信仰的に未熟なところばかりが目につき、窮屈な状態に陥ったのです。聖書の中に、シロアムの池で盲人を癒やすイエスの姿があります。「彼が盲目に生まれついたのは、だれが罪を犯したからですか」といった問いかけに対して、イエスは「この人が罪を犯したのでもなく、両親でもありません。この人に神のわざが現れるためです」(ヨハネ9・3)とお答えになりました。この話に触れたことのあるクリスチャンは、私の病についても意味のあることだと過剰に反応してしまいます。
「良孝君は神様に選ばれている」とか「いるだけで神様の栄光を表している」とさえ言われることもありました。もちろんよい評価であり、喜ぶべきなのでしょうが、私が努力してなったわけでもないので、とても面はゆい感じがしました。そういう環境ですから、次第に実像とかけ離れたイメージを演じることになります。もちろん私のことを思い、配慮していただけるのはありがたいことですが、心の中では「僕もフツーなんだ~」と叫びたい気持ちでした。
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この頃「心のバリアフリー」という言葉が聞かれます。「障害者差別の根本は、物理的な障壁ではなく、心にある障壁だ」という考え方です。私はあまりこの言葉は好きではありません。障害者への無理解を心の問題とするよりも、知識の問題とするほうがよいと思うからです。知ることで障害があってもなくても、人間としての本質はそれほど変わりがないということがわかります。
このことは、私が通う日本ナザレン教団千葉教会の皆さんが証明しています。教会員の方々は最初のうちは、人工呼吸器を着けた重度障害のある私をおっかなびっくりな感じで迎えてくれましたが、今は私がいる風景が当たり前になっているのではないでしょうか。当たり前というのは悪い意味ではありません。スロープの設置や礼拝資料のコピーなどの特別な準備をした上で、人として、クリスチャンとして「フツー」に関係をとっていただいているということです。どんなサポートが必要なのかを皆さんが知ってくださいました。特別だから優しく扱おうというのではなく、具体的に知識を積み重ねることが大事なのです。
私の側も周囲の方がもつ私への思いについて多くのことを知りました。もう反発せずにいられます。障害者と健常者の間には、厳然として「違い」という壁が存在します。その存在を認めつつ双方が歩み寄ることが賢明だと思うのです。
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月一回の連載も、とうとう最終回を迎えました。これまで十二回、皆さんのもとに私の思いを伝えてきたわけですが、書くことを通じて、自分の存在や内面について見つめ直すことができました。
普段の暮らしにおいて見過ごしがちなことを再発見したり、いろんな気づきがあったりと、大変有意義な一年間でした。クリスチャンとしての歩み、自立生活や病気との闘いなど、自分の半生を振り返る貴重な機会でした。振り返ったことで、私の人生の節目には、多くの出会いがあったと理解でき、その背後に神様の存在を感じることができました。
そして、この連載を続けられたのは、読者の皆さんの祈りによるものです。神様に感謝します。