日常の「神学」 今さら聞けないあのこと、このこと 第4回 メッセージ(説教)とは?

岡村 直樹

横須賀市出身。高校卒業後、米国に留学。トリニティー神学校を卒業し、クレアモント神学大学院で博士号(Ph.D.)を取得。2006年に帰国。現在、東京基督教大学大学院教授、日本福音主義神学会東部部会理事、hi-b-a責任役員、日本同盟基督教団牧師。

 

メッセージ(説教)は、多くの教会の礼拝の中で、最も長い時間が割かれる部分です。メッセージを準備するのは大変ですが、聞くほうだってまあまあつらい!と感じる人も中にはおられるでしょう。

現代人は、黙って座って話を聞くのが苦手とも言われます。日頃からテレビやインターネットに慣らされているからかもしれません。しかし聖書の中には、パウロのメッセージ中に眠ってしまった青年(使徒20・9)も出てきますから、当時も現代とそう変わらなかったのかもしれません。

さて、「メッセージ=牧師の仕事」と自動的に考えてしまう人は多いかと思いますが、実はそうではありません。ペテロはクリスチャンに対し、「だれにでも、いつでも弁明できる用意をしていなさい」(Ⅰペテロ3・15)と語り、パウロも、「互いに教え、忠告し合う」こと(コロサイ3・16)を命じています。また彼らは人々のいる所に出向いて行き、そこでメッセージを語りました。キリストに「全世界に出て行き、すべての造られた者に福音を宣べ伝えなさい」(マルコ16・15)と命じられたからです。

確かにメッセージは、牧師の果たすべき大切な役割の一部ですが、聖書の記述を見ると、「メッセージは、プロである牧師に任せておけばよい」と考えるべきではないことがわかります。教団や教派によってポリシーが異なる場合はありますが、牧師がいない教会や、牧師の病欠中に、教会員が交代で礼拝でのメッセージの働きを担うことがあります。子ども礼拝や、祈祷会等でメッセージを依頼されることもあるでしょう。教会の外の大小さまざまな集まりで、福音のメッセージを語るという機会が訪れることもあります。より広い意味で、メッセージを語ることはすべてのクリスチャンに託されている働きであると言えるでしょう。

では、メッセージに関する牧師の役割とは何でしょうか。もちろん牧師は、教会において中心的にメッセージを語る役割を担いますが、良い説教者になるよう教会員を励まし導くこともまた、重要な務めであると言えるでしょう。

メッセージを語る人には、大切な使命があります。ペテロとヨハネが神様に、「しもべたちにあなたのみことばを大胆に語らせてください」(使徒4・29)と祈ったように、「みことばを大胆に語る」ことです。それは、モーセ、ダビデ、キリスト、またパウロが何千年も前に語った言葉を、現代人の心に大きなインパクトをもたらす言葉として語り直すことだと思います。そのためには何が必要でしょうか。

パウロは、「ただし、柔和な心で、恐れつつ、健全な良心をもって弁明しなさい」(Ⅰペテロ3・16)と書いています。イギリスの神学者ジョン・ストットも、「説教者の準備は、説教の準備より重要である」と語りました。メッセンジャーは何よりもまず、自らの信仰者としての態度を顧み、整えなくてはならないということです。

次に必要なことは「大胆さ」です。キリストは実にダイナミックな説教者でした。山の上で、また食事の席で語られ、たとえ話や比喩的表現も使われました。あるときは弟子たちを連れて会堂に行き、人々が献金する様子を見せながら教えられました。キリストは、人々の「聞く力に応じてみことばを話された」(マルコ4・33)のです。パウロも「福音のためにあらゆることをしています」(Ⅰコリント9・23)と、対象者に合わせたアプローチを語っています。

メッセージにおける「大胆さ」にはいろいろな要素があると思いますが、聞く人に届くように、あらゆる手段を用いて語るということも、そのひとつであると思います。自分のメッセージスタイルにこだわり、聞く人に対して「それに慣れてください」というような態度ではなく、「あの人にどうすれば届くだろうか」という思いをもって工夫してメッセージを準備し、語ることが大切ということですね。

一方で、メッセージを聞く人にも責任があります。旧約聖書には、「主を恐れることは知識の初め」(箴言1・7)と書かれています。メッセージによって語られるのは「みことば(神のことば)」ですから、評論家のような「上から目線」な態度ではなく、へりくだった態度で聞く必要があります。時には、お世辞にも聞きやすいとは言えないメッセージを聞かなくてはならないこともあるでしょう。しかし説教者にあまり目を奪われてしまうと、肝心の神様からのメッセージを聞けなくなってしまうのです。

最後になりましたが、メッセージを準備する上で、語る上で、また聞く上で、最も大切なことがあります。それは聖霊なる神様の働きです。その働きがなければ、罪のある人間は、正しくメッセージを語ることも、また理解することもできません。常に聖霊なる神様の働きを求め祈りつつ、へりくだった態度でメッセージと向き合いましょう。