信じても苦しい人へ 神から始まる新しい「自分」第11回 教会に行く理由②
中村穣 (なかむら・じょう)
2009年、米国のウエスレー神学大学院卒業。帰国後、上野の森キリスト教会で宣教主事として奉仕。2014年、埼玉県飯能市に移住。飯能の山キリスト教会を立ち上げる。2016年に教会カフェを始める。現在、聖望学園で聖書を教えつつ、上野公園でホームレス伝道を続けている。
第11回 教会に行く理由②
〜何もできない私を神様は愛してくれるの?〜
前回は、教会には孤独が必要という話をしました。今回はその孤独を見えなくさせてしまう、私たちの「奉仕などの働きへの姿勢」について考えたいと思います。
救われた時の感動を胸に、私にも何かできないかと「できること」を探すものです。最初は喜んでできた奉仕も、時間が経つにつれ、重荷に感じてしまったり、どうしてその奉仕をしているのかわからなくなってしまったりします。最初にあった思いは、純粋な神様への愛だったはずです。しかし時間が経つと、純粋な気持ちが見えなくなり、周りの人と比べて、「自分はあの人のようにはできていないなぁ」と苦しくなってしまいます。
私は長い間、それはなぜかを考えてきました。そして、何かをするという「主観的な信仰」では現せないことがあると気づきました。今日はそれをシェアしたいと思います。
私たちが神様のため、教会のために何かをするとき、二つの陥りやすい落とし穴があります。一つは、失敗したときに自分を見下してしまうこと。良いことをしようと頑張った分だけ自分を責めてしまいます。もう一つは、自分はこれだけやっているのに、どうして気づかないのだろうと人を責める思いです。これらは、私たちの行動にはどうしても「自分から始まる」という特性をもつ私たちの「主観的な信仰」から来ています。
教会に行くとき、何かをするという「doing」的なものだけではなく、神様の前に静まる「being」的な姿勢が大切です。何もしない私が、ありのままの姿で神様と出会える“静寂な場所”が教会には必要です。そして、奉仕をした後に、あなたが行った働き(doing)を主の前に降ろすのです。そうしないと、二つ目の落とし穴のように、奉仕の成果を探す心でいっぱいになってしまい、神様の愛をなかなか受け入れられないという現象が起きてしまいます。
奉仕をすることは大切です。しかし、ある一つのことをしていると、同時にはできないことも生じます。人は歩いているときには眠れません。しゃべっているときには聞けません。それと同じように、何かをしていると神様の声が聞こえなくなることもあります。だからこそ私たちは、静寂な場所で主の御声を受け取ることが必要なのです。
あるとき、伝道集会に呼ばれました。青年たちが犠牲を払い、準備をしている姿を見ていました。みんなで祈り、当日を迎えました。しかし残念ながら、新しい人は来ませんでした。みんなの顔がだんだんと暗くなっていくのを感じました。集会後の反省会で、みんなが自分の準備の至らなさ、祈りの足らなさを告白していました。
私はそのとき、違和感を覚えました。なぜなら、みんなが本当に一生懸命準備をしているのを見てきたからです。私は反省会の最後に言いました。「もしかしたら、神様は新しい人ではなく、あなたを呼んでいたのかもしれないね。私たち人間は自分の思いで予定を立てるけど、神様はあなたに一番近くに来てほしいと願っていたのかもしれないね」と。すると一人、また一人と涙を流しながら、「今日のメッセージは私のためでした」と告白し出しました。
私たちは自分の思いで何かをしようとします。しかし神様は、それ以上のことを用意してくださっています。伝道集会の準備をした青年たちも、主観的な信仰では受け取れない神様から感動の愛を、「思いどおりにならなかったこと」を通して受け取れたのです。この神様からの愛を受け取るには、“静寂な場所”が必要です。そこは、あなたが何かしたからではなく、私たちの行動よりも前に、神様がまず愛してくださり、私の存在を認めてくださっていることを受け取る場所です。時に、奉仕をたくさんしている自分、誇れるものがある自分のほうが主の前に出やすいものです。しかし奉仕をしているから、うまく何かをできているから、神様はあなたを愛しているわけではありません。自分のしている「主観的な信仰」の奉仕を脇に置き、ありのままの姿で主の前に出るとき、あなたは何かをしているとき以上の恵みを、神様から受け取ることができるのです。
神様が愛してくださっているので、その愛への応答として私たちは奉仕することができるのです。あなたは奉仕をしに教会に行っていますか。もし、そうであれば、ありのままの姿で主と出会うために、静寂な場所を見つけてみませんか。私たちは、神様と出会うために教会に行くのです。
「救いの原理は、救いのためにすべてを勝ち取ってくださったキリストから、その義と功績を我が身に受け取り、キリストに全く依りすがって、十字架の功績を自分の身に受け取るための空っぽの乞食の手のような信仰である。」
(ジョン・ウェスレー『信仰による救い』訳者ノート)
※好評連載につき単行本化『信じても苦しい人へ 神から始まる「新しい自分」』