~Daily Light~ 第6回 かけがえのないもの

~Daily Light~
石居麻耶 Maya Ishii
千葉県出身。アーティスト。画家。イラストレーター。東京藝術大学大学院美術学部デザイン専攻描画造形研究室修了。
大学卒業後の個展やグループ展等の展覧会やホームページ、ブログで発表した作品をきっかけに本の装画、週刊誌、文芸誌、新聞連載のイラストなどの仕事を担当。

 

第6回 かけがえのないもの

私は今日に至るまで何度か引越しをしましたが、その中でも一番記憶に残っている思い出があります。

私が小学校三年生の頃、これまで住んでいた社宅が老朽化で取り壊されることになり、別の場所に社宅が建てられることになったのでした。今思い出すとお世辞にも住みやすいとは言いがたく、床板はギシギシと音を立て、窓枠は木製、雨漏りもして水道管も錆び、部屋は狭かったのですが、その中で楽しんで過ごしていました。それに社宅の敷地は桜やビワ、いちじくの樹、藤棚、四季折々の草花に満ちていて、それだけで充分楽しかったのです。

社宅には多くの人が住んでいましたが、みんな順番にそこをあとにしてゆきました。大半は新しい社宅に移りましたが、私たち家族は新しい家で二世帯住宅生活をすることになり、古い社宅に最後に残った一軒となりました。人がいない集合住宅はどこからか誰かが出てきそうで、でもとても静かで、不思議と皆で過ごした思い出が残像となってよぎるのでした。

そして最終日、父と妹二人が先に出発し。母と私が残って最後の戸締りをしていると、私の心の内は空っぽの部屋で静かに転がるように言葉になっていました。「もう、なくなっちゃうんだね。」そうしたら母が、すべての終わりに処分し忘れていた物干し竿を私たちが住んでいたB棟3階のベランダから、A棟めがけて思いっきり投げたのでした。物干し竿はしなりながら、鏑矢のような音を立ててよく晴れた空に吸い込まれるように飛んでゆきました。

私はそのときの槍投げ選手のようだった母の姿と、誰もいない敷地に落ちていった青い物干し竿を、今でも忘れません。

「神はみこころのままに、あなたがたのうちに働いて志を立てさせ、事を行わせてくださる方です。」
(ピリピ人への手紙2章13節)