日常の「神学」 今さら聞けないあのこと、このこと 第7回 奉仕と教会
岡村 直樹
横須賀市出身。高校卒業後、米国に留学。トリニティー神学校を卒業し、クレアモント神学大学院で博士号(Ph.D.)を取得。2006年に帰国。現在、東京基督教大学大学院教授、日本福音主義神学会東部部会理事、hi-b-a責任役員、日本同盟基督教団牧師。
教会の中で頻繁に用いられる言葉のひとつに「奉仕」があります。礼拝の司会や献金当番にはじまり、教会堂の掃除、食事会の準備といった教会内のさまざまな働きが「奉仕」と呼ばれます。
一方、教会外の人にとって「奉仕」は、比較的イメージしにくい言葉かもしれません。普段この言葉を最も目にするのは、スーパーなどで商品の横に置かれた「ご奉仕品」と書かれた札くらいでしょう。辞書で「奉仕」を引くと、「国家・社会・目上の者などに利害を考えずにつくすこと」という定義と共に、「サービスとして特に安く売ること」とあります(『大辞林』第三版、三省堂)。教会外の人に対して「奉仕」をわかりやすく説明しようと、「教会でボランティアをしている」と言われる方も多くおられることでしょう。
「奉仕」という言葉は、聖書の中で繰り返し用いられています。旧約聖書では九十五回、新約聖書では三十三回登場します(新改訳2017)。旧約聖書では、そのほとんどが礼拝の場所、すなわち天幕(幕屋)や宮、神殿においてなされる祭儀的な働きに対して用いられています。教会におけるクリスチャンの働きが「奉仕」と呼ばれるのは、確かにふさわしいですね。
新約聖書では、より多様な場所や働きに対して「奉仕」という言葉が使われています。神殿のあったエルサレムから遠く離れた、まだ教会のない宣教の地での働きにも「奉仕」という言葉が使われています。さらに「みことば」を語ること(使徒6・4)や、人々の「欠乏を満たす」働き(Ⅱコリント9・12)についても「奉仕」という言葉が用いられています。
しかし、そのような「奉仕」の多様性がある中で、パウロは以下のようにも書いています。「奉仕はいろいろありますが、仕える相手は同じ主です」(Ⅰコリント12・5)。教会で必要とされる奉仕には、さまざまな種類があります。しかしそこに優劣はありません。なぜなら、すべての奉仕は「主なる神」に対してなされるものだからです。
さらにこのパウロの言葉は「奉仕」の方向性をクリスチャンに教えています。時に私たちは、人間関係に心を奪われ、「人の目を気にしての奉仕」「しがらみからの奉仕」に従事してしまうことがあります。もちろん、心のすべて(一〇〇%)を神に向けた「純粋な奉仕」は存在しません。人間には罪があるからです。しかし、「この奉仕はどこに向かってなされているだろうか?」と自問自答し、その心の方向性を常に確認することは重要です。
またパウロは「ですから、神への奉仕について、私はイエス・キリストにあって誇りを持っています」(ローマ15・17)と語っています。「奉仕」はクリスチャンに与えられた特権です。全知全能の主、この世のすべてを創られ、治めておられる神様に仕えることができるとは、何とすばらしいことでしょう。たとえそれがどのような「奉仕」であっても、必要とされる「奉仕」の働きに従事するときは、真っ直ぐに心の目を神様に向け、そして誇りを持って、その役割を全うしたいものですね。
同時に、「奉仕者」への配慮も必要です。たとえば、「もう何年も教会に通っているのだから、この奉仕ができて当然だ」「役員なのだから、この奉仕ができないのはおかしい」といった考え方は聖書的ではありません。私たちはそれぞれ「異なる賜物」(神様から与えられたさまざまな力)を持っていますから(ローマ12・6)、あくまでもそれに忠実に、ふさわしく「奉仕」することが求められているのです。
教会のみなさんに対して、さまざまな「奉仕」の働きに加わってもらうことを励ますこと(励まし続けること)は大切ですし、そのために必要な訓練や準備を提供することも大切です。しかし、無理なときは「ちょっと無理です」と、遠慮なく言える環境がそこにあることも、同様に大切かもしれません。たとえ喜んで始めた奉仕であっても、家庭の事情や体力的な課題で、続けることが難しくなることがあるからです。本来は安息日であるべき日曜日に、「奉仕者」に抱えきれないストレスがかかってしまうことや、「奉仕者」が毎週ヘトヘトに疲れてしまうような状態が続くことは、教会にとって健全であるとは思えません。
奉仕者が足りないときには無理やり募るのではなく、「私の神は、キリスト・イエスの栄光のうちにあるご自分の豊かさにしたがって、あなたがたの必要をすべて満たしてくださいます」(ピリピ4・19)というみことばを信じつつ祈り、信仰者として待ち望むこともまた、「主への奉仕」の一部であると考えるべきでしょう。