特集 戦争を語り継ぐ あるアメリカ兵との出会い
戦後七十五年を迎える八月。「戦後生まれ」が日本の総人口の八〇パーセントを超え、戦争体験を語ることのできる世代が減っていくなかで、「戦争の記憶」をどのように継承していけばよいのだろうか。自らの幼少期の体験、戦争体験を語り続けてきた声に、いまあらためて耳を傾ける。
早稲田大学名誉教授 木村利人
アメリカ人と話をしていて「日本では戦後……」と話し始めると必ず「どの戦後?」という質問が返ってきます。
私たちにとって「戦後」といえば、第二次世界大戦終了後を指すのが当然なのですが、アメリカではその後、朝鮮戦争、ベトナム戦争、湾岸戦争など多くの戦争を経験しているので「戦後」がいくつもあるのです。
そのことを考えると、この七十五年間、戦争には直接関わらない時代を過ごせたことに感謝し、この「戦後」を永遠に持続させなければいけない責任と使命を感じます。
私は一九三四(昭和九)年生まれです。その三年前の一九三一年に満州事変が起き、生まれて三年後の一九三七年に日中戦争が始まります。
そして一九四一年、小学校一年生の時の十二月八日早朝に、日本が真珠湾への奇襲攻撃をして、太平洋戦争へと突き進むことになった米英への宣戦布告の臨時ニュースをラジオで聞いて、思わず「バンザーイ!」と叫んだ「軍国少年」でした。
太平洋戦争の後半、米軍による日本の都市への空襲が激化するにつれて、学童の集団疎開が政府によって決定され、私は、最初に山梨県の猿橋へ、そして後に、岩殿山の山中にあるお寺へと疎開させられました。
食べるものも乏しく、いつもお腹をすかしていた少年時代でしたが、「勝ってくるぞと勇ましく」などと、軍歌は大声で歌いました。米軍の空襲で東京中が火の海と化し、私の家も焼けてしまったと聞いたときには、自分も将来軍人となり、アメリカをやっつけるのだと本気で考えていました。小学生の私にとっての敵は「憎っくきアメリカ人」だったのです。
敗戦時、私は十一歳でした。生まれてからずっと戦争の中で暮らしていたのです。戦争が終わって私は初めて戦争のない生活となり、再び家族が一緒に住むことができたのは何よりも嬉しいことでした。
中学生になって、英語の授業も始まりました。そして当時、たまたま知り合った一人のアメリカ人の進駐軍(第二次世界大戦後、日本に進駐した連合国軍の俗称)将校との出会いが、私の「憎っくきアメリカ人」の印象を一八〇度変えてしまったのです。その人の名前は「キーフさん」でした。
冬のある日のことでした。日比谷公園近くのNHKビルの前に立っていた私に、ビルから出てきたその人は笑顔で「ハロー」と声をかけてくれたのです。中学に入って英語の勉強を始めたばかりでしたが、好奇心のかたまりのようだった私は、とっさに「ハロー」とおうむ返しに嬉しそうな笑顔で返事をしてしまったようです。そんな私に興味を持ってくれたらしく、キーフさんは立ち止まって私に話しかけてくれました。
とは言っても、習いたての英語ですから何を言っているのかわかりません。それでもどうやら、私の名前は「リヒト」ということをわかってもらい、私もその人の名前が「キーフ」だということがわかりました。
そして別れ際に何か書いた紙切れをくれて、手を差し伸べてくれたのです。握手したその手の温もりが私の心まで温めてくれたことを今でも覚えています。そして、その温もりを感じながら、あの人が私が心から憎んでいたアメリカ兵なのだろうか、いや、そんなはずはない、と自問自答していたのでした。
それからしばらくして私は、キーフさんがくれた紙切れに記された連絡先を頼りに、進駐軍のオフィスになっていたNHKのビルに行きました。あの温もりが忘れられず、絶対にまた会いたいと思ったからです。
キーフさんは私を見てとても喜び、自分のオフィスに連れて行き、同僚たちに「リヒト」だと紹介してくれたのでした。そして仕事が終わるまで待っていた私を、自分で運転するジープの助手席に乗せて、白金にある自宅まで連れて行ってくれたのです。そこで出されたビフテキを見たとき、こんな大きな肉を見たことがなかったので、本当にびっくりしました。
それからというもの、毎週のようにキーフさんの家に行っておいしいものをご馳走になり、時にはボウリングに連れて行ってもらったり、PXという進駐軍専用のデパートでバスケットシューズを買ってもらったりしました。
そんな夢のような日々を過ごしていましたが、ある日突然に帰国命令が出たのでしょうか、キーフさんとは、連絡することも会うこともできなくなってしまいました。
その後、四十代になった私は、ワシントンD・Cのジョージタウン大学に赴任しました。そこで一番初めにしたのは、キーフさんを捜し出すことでした。そして、当時キーフさんが住んでいるのがアリゾナ州だということを突き止め、ついに一九九一年八月十三日、四十五年ぶりに再会を果たすことができたのです。キーフさんは、カトリックの神父さんになっておられました。
「私の人生の前半は人を殺す訓練をしていました。そして、今は人を生かす仕事をしているのです」という穏やかな笑顔が印象的でした。その笑顔を見ながら、この人は絶対に、私がかつて憎んだ、あのときの「敵」ではないことをつくづくと思わせられました。
では、一体あのとき心に描いていた「敵」はどこにいるのでしょう。本当の敵とは、架空の敵を作り出し、国民に煽った傲慢な指導者たちだったのではないかと、今になって思うのです。
このキーフさんとの出会いの物語を書いた妻の恵子ともどもCGNTVの番組「本の旅・五二九編」に出ました。
戦後七十五年を経て、私たちが忘れてはならないのは、日本の軍事侵略により、約二千万人のアジア近隣諸国の人々が犠牲になり、各地に筆舌に尽くし難い惨害を与えたということです。その悲しみと赦しを現地フィリピンの友人たちと共有し、詩篇四七篇をヒントにして、私が「幸せなら手をたたこう」を作詞したのは、一九五九年のことでした。いのちのことば社から刊行された『子どものとき、戦争があった』『人生の転機・明けない夜はない』及び月刊誌「百万人の福音」(二〇一七年八月号)には、その体験を書きました。そして、福音歌手の森祐理さんの美しい歌声での、賛美歌版「しあわせなら手をたたこう」のCDもお聴きいただければと願っています。
今こそ「平和をつくる者は幸いです」との聖書の教えを「態度に示して」生きていきましょう!