312 時代を見る眼 コロナ禍における教会を考える〈3〉 自分と神に向き合う時

日本伝道福音教団・鶴瀬恵みキリスト教会 牧師 堀 肇

 

ここ数か月、繰り返し「密閉・密集・密接」の三密を回避し、人との距離をとるなど、新型コロナウイルス感染防止の呼びかけを聞き続けてきました。その実践として、会社は在宅勤務、大学はオンライン授業、商業施設は営業自粛など、さまざまな行動変容が求められてきました。
簡単に言えば、ウイルス感染防止の要諦は物理的にできるだけ「人から離れよ」ということです。これが精いっぱいのリスク管理であったと思います。
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ところで、外出自粛などで長い閉じこもり生活が続くと、心と体の健康を害する可能性があるため、適度の運動や室内で楽しめる趣味をやってみる、また人との繋がりを電話やSNSを使って声をかけ合うなどが薦められてきました。
しかし、このような行動自粛が余儀なくされ、人と離れることがすべてマイナスということではありません。人間はひとり閉じ込められたような世界に置かれると、内なる自分と対峙し、「人間とは何か、生きるとは何か」というような問いを発し、今まで認識し得なかった自己の姿に気づいたり、それまで持っていた価値観を振り返ったりするようにもなるものです。
キリスト者の場合は、そのような哲学的な問いだけでなく、神に真剣に向き合う契機ともなり得るのです。
ことにみことばを魂の深みで聴く黙想は、その前提として沈黙(silence)と孤独・独りでいること(solitude)が条件となりますから、人との距離をとり、外出自粛が半強制的に求められている時などは、考え方次第では、その良い機会ともなるのではないでしょうか。
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数年前に鑑賞した映画「大いなる沈黙へ」で紹介されたフランスのグランド・シャルトルーズ修道院の生活を思い出しました。そこは週に一度、日曜午後の散歩の時間にしか人と話すことができません。しかし、そこには修道士たちの自由で満ち足りた生活の様子が見られ、不思議な感動を覚えたのです。
私たち現代人は喧噪と饒舌に満ちた世界にいますが、このある意味で強いられた孤独の中で、その時を無駄にせず、自分と神に向き合う機会としたいと思うのです。
主イエスも、時には弟子たちを群衆から引き離し、「無理やり舟に乗り込ませ」(マタイ6・45)、むこう岸に行かせようとされたほどですから。