日常の「神学」 今さら聞けないあのこと、このこと 第9回 教会と教会員

岡村 直樹
横須賀市出身。高校卒業後、米国に留学。トリニティー神学校を卒業し、クレアモント神学大学院で博士号(Ph.D.)を取得。2006年に帰国。現在、東京基督教大学大学院教授、日本福音主義神学会東部部会理事、hi-b-a責任役員、日本同盟基督教団牧師。

 

人が信仰をもつに至るプロセスは、とても個人的な経験です。神様は、人間一人ひとりの心に語りかけてくださるからです。しかし神様は信仰者に、個人的な信仰生活を送るようにとは言っておられません。「教会」で他の信仰者と共に礼拝し、学び、奉仕すること、すなわち「教会」に属することを求めておられます。

「教会」に属するということには、二つの意味があります。ひとつは、礼拝で読む使徒信条にも記されている「聖なる公同の教会(公同教会)」に属するということです。「公同教会」は、国境や人種、言葉や文化の壁をも超えて存在する、クリスチャンの集まりを指します。出張や旅行先で初めて足を踏み入れた教会で、今まで会ったことのない人たちと共に祈り、また信仰を分かち合うことができる喜びを体験し、「私たちは神の家族なんだなあ」と感じるあの感動こそが、「公同教会」に属するということです。

もうひとつの意味は、「地域教会」に属するということです。こちらは、毎週通っている、顔なじみの兄弟姉妹がいる「教会」のことです。クリスチャンは「公同教会」に属する者であり、また同時に、「地域教会」に属する者でもあります。私たちは神様の前に罪を悔い改め、キリストの恵みの救いをいただいてクリスチャンとなります。その時点で、「公同教会」に属します。その後、洗礼準備会等を経て洗礼を受け、教会員となります。その時点で、今度は特定の「地域教会」にも属することになります。

「地域教会」の会員となることは、「教会籍」を得ると表現されることもあります。英語では、「チャーチ・メンバーシップ」と訳されますが、それは個々が所属する「地域教会」を確定し、公にすることでもあります。

あるクリスチャンは、「公同教会」に属していれば、「地域教会」には属さなくてもいいのではないかと考えますが、それは間違いです。聖書の教える「兄弟愛をもって互いに愛し合う」(ローマ12・10)ことや、「互いの重荷を負い合う」(ガラテヤ6・2)ことは、おもに「地域教会」での近しい関係性を指しているからです。

たしかに聖書の時代には、現代の「地域教会」にあるような会員制度はありませんでした。しかし当時のクリスチャンにも、それぞれの「地域教会」に属しているという、はっきりとしたグループ意識(帰属意識)がありました。パウロやヨハネの書簡も、そのような意識を前提に書かれています。

「地域教会」の会員となる経緯はさまざまです。生まれたときから親と一緒に通っている教会や、友だちに誘われて初めて行った教会で救われ、洗礼を受けて会員となるケースもあります。また進学や就職、転勤などで、住む場所が変わった際、母教会の牧師や、クリスチャンの知り合いから勧められて、「転会」(教会籍を移す)という形で「地域教会」の会員となることもあるでしょう。
いずれにせよ、「(神様は)キリストを、すべてのものの上に立つかしらとして教会にお与えになりました」(エペソ1・22)とあるように、「教会のかしら」はキリストですから、クリスチャンが「地域教会」に属するというプロセスの中には、神様の導きがあります。ですから、会員制レストランを選ぶように、自分の好みだけであちこちの教会を比較して決めるべきではありませんし、アイドルのファンクラブの会員のように、飽きたらすぐやめるべきでもありません。神様に導かれ、そして会員となったからには、しっかりと腰を落ち着け、じっくりと関係性を築いていくことが重要です。

完璧な「地域教会」はどこにも存在しません。そこは天使たちの集まりではなく、不完全な人間によって形成される不完全な共同体です。牧師や役員でさえ欠けだらけの罪人です。だからこそ神様はクリスチャンに、「兄弟愛をもって互いに愛し合う」ことや、「互いの重荷を負い合う」ことに加え、「互いに忍耐し合い……赦し合う」(コロサイ3・13)ことを求めておられるのです。牧師の説教がいまいちだと思っても、役員の性格が自分と合わないと感じても、会員の役割は「教会」をぶっ壊すことでも、逆に身を引いてしまうことでもなく、建て上げることです。ローマのクリスチャンに対してパウロは、以下のような言葉を送っています。「ですから、私たちは、平和に役立つことと、お互いの霊的成長に役立つことを追い求めましょう」(ローマ14・19)。

「地域教会」の会員は、祈りと奉仕とささげ物をもって教会と、その「かしら」であるキリストに仕え、自分を含めた「教会全体」の平和と成長のために尽くす役割を担う者なのです。