特集 霊性とは何か「自分らしさ」を見つめる 「本当の自分」になるとは理想か、それとも幻想か

仕事、家庭、勉強、さまざまな分野で「達成する」ことが良いとされるなかで、信仰面においても「達成する」ことを重視していないだろうか。やるべきことに追われて、ないがしろになりつつある「魂を求める」という霊性の面に目を向け、本当の意味での「自分らしさ」とは何かを考える。

 

 

中之条キリスト集会牧会者・『「霊性の神学」とは何か』著者  篠原明

 

「本当の自分」を求める心の渇き

友人たちと話をしていた時のことでした。私は、友人の一人が言ったことばに衝撃を受けました。「私は現在の自分の霊的状態に満足している。」なぜ私は、彼のことばに衝撃を受けたのでしょうか。

私はその時まで(そして今でも)、自分の霊的状態に満足したことなど一度もなかったからです。その友人は何代もクリスチャンである家系に育ち、中には牧師だった人もいました。そのような環境で育まれた祝福を、彼は率直に語ったのでした。

このことに問題などありません。それでも、「自分の霊的状態に満足している」と何のためらいもなく言えること自体に、私は驚きを禁じえませんでした。

「自分の現状に満足していない」「今の自分は『本当の自分』ではない」と思っている人は、決して少なくないでしょう。私たちは「本当の自分になる」ことを求める心の渇きを、どこに向けたらいいのでしょうか。

 

「霊性」というアプローチ

「霊性(スピリチュアリティ)」と呼ばれる分野があります。そもそも霊性とは何でしょうか。
霊性とは、クリスチャンとして真実に生きることであり、聖書に啓示された福音の真理を生きぬくことです。言い換えると、聖霊によって、神との深い交わりの中を生きることです。先輩のクリスチャンたちはこれを「霊性」と呼んできました。

私たちは、霊性という視点を、どのようにしたら日常生活の中に具体的に活かしていけるのでしょうか。そのために、キリスト教史の中の先輩たちの声に耳を傾けてみましょう。

まず、最も偉大な先輩の一人であるアウグスティヌスは、『告白』の冒頭部分で神に向かって次のように語っています。

「あなたは私たちを、ご自身にむけてお造りになりました。ですから私たちの心は、あなたのうちに憩うまで、安らぎを得ることができないのです。」

 

私たちは神との交わりに生きる者として造られたのですから、神との深い交わりによって心満たされないかぎり、私たちの心に安らぎはありません。

神のうちに安らうとは、御子の姿です。御子が御父のふところで永遠に安らいでいるように(ヨハネ1・18)、私たちも御子にあって、御霊によって、御父のふところで永遠に安らぐ者とされたのです。その意味で、御子の姿こそが、私たちのあるべき姿―「新しい自分」―なのです。

言い換えると、愛の神は私たちを御子キリストの姿に造り変えるために、私たちを子としてくださったのです。

 

「本当の自分になること」を求める「落とし穴」

実はここに、私たちが陥りやすい「落とし穴」があります。すなわち、私たちが「本当の自分になること」を求めるときに、「本当の自分」が遠くなり、キリストの姿からも遠くなることがあるのです。

この落とし穴について、もう一人の先輩C・S・ルイスが指摘しています。

「われわれのなすべき第一歩は、自分のことを全く忘れることである。われわれが自己を求めている限り、われわれはほんとうの新しい自己……は与えられないであろう。それは、われわれがキリストを求める時にのみ、与えられるものなのである」(『キリスト教の精髄』三三八~三三九頁、傍点筆者)。

これは自己受容の拒否でも、現実逃避でもありません。ひたすらキリストの姿を求めているので、自分のことを忘れているだけなのです。このように自分を忘れているときに、私たちは「真実の自分」「新しい自分」を生きているのです。

「本当の自分」から「新しい自分」へ

見上げてごらん夜の星を
ボクらのように名もない星が
ささやかな幸せを祈ってる
手をつなごうボクと
おいかけよう夢を
二人なら
苦しくなんかないさ

最近この「見上げてごらん夜の星を」(作詞・永六輔)を聴いて、「優しさにあふれた歌だなあ」と感動しました。

ここには「本当の自分になること」へのこだわりはありません。あるのは「見上げてごらん夜の星を」と語りかけている相手への思いやりと、「ボクら」の幸せを祈ってくれる星への憧れだけです。相手が幸せになることを星に願う。気がつくとそれが「ボクら二人」の幸せになっている。―センチメンタルすぎるでしょうか。いいえ。これこそ霊的成長への鍵なのです。

今とは別のところに「本当の自分」があるのではありません。「本当の自分」になっているかどうかを、自分で判断しなくてもいいのです。「本当の自分になる」という思いから解放され、ひたすらキリストの姿になることを求め、私たちの隣にいる相手のために生きるとき(生きることを求めているとき)、そうすることで自分のことを忘れているときにこそ、私たちはキリストにある「新しい自分」を「今、ここで」生きているのですから。
「自分のいのちを救おうと思う者はそれを失い、わたしのためにいのちを失う者はそれを見出すのです」(マタイ16・25)。