日常の「神学」 今さら聞けないあのこと、このこと 第12回教会と交わり

岡村 直樹

横須賀市出身。高校卒業後、米国に留学。トリニティー神学校を卒業し、クレアモント神学大学院で博士号(Ph.D.)を取得。2006年に帰国。現在、東京基督教大学大学院教授、日本福音主義神学会東部部会理事、hi-b-a責任役員、日本同盟基督教団牧師。

 

教会の中で頻繁に耳にする言葉のひとつに、「交わり」があります。この言葉を聞くと、礼拝の後に皆さんで茶菓や食事を共にすることや、青年会、婦人会、壮年会といったグループでの楽しい集まりが、多くの人たちの頭に思い浮かぶかもしれません。キリストの昇天の直後、始まったばかりの教会にあったのは、「祈り」と「食事」と「交わり」(使徒2・41~42)でしたから、そのようなイメージは、とても聖書的であるといえるでしょう。

一般的に「交わり」とは、人との交際やつきあいを意味する言葉ですが、聖書の語る「交わり」には、さらに多様で豊かな意味が含まれています。キリストを救い主として告白し、自分の罪を悔い改めるとき、私たちは恵みによってキリストの救いを受けることができます。パウロはそれを、「キリストとの交わりに入れられた」(Ⅰコリント1・9)と表現しています。救いを受けたとき、神様は私たちに天国行きの切符を手渡し、「では、天国で待っていますよ!」と言っていなくなってしまう方ではありません。救いが与えられた日から、天国へ行くまでの地上での期間、私たちはずっと神様の「愛」と「励まし」と「慰め」のある親しい「交わり」(ピリピ2・1)の関係性の中に留まり続けることができるのです。

神様が私たちに下さるこの親しい「交わり」の関係性は、クリスチャン同士の横の「交わり」の見本でもあります。その「交わり」は、一時的な、また楽しいだけの表面的なおつきあいではなく、心と心の人格的な「交わり」です。そこには「愛」があり、つらいときには「励まし」が、悲しいときには「慰め」があります。クリスチャンは互いに「配慮し合う」だけではなく、「ともに苦しみ」、「ともに喜ぶ」関係性(Ⅰコリント12・25~26)でつながっているからです。このような横の「交わり」もまた、神様が私たちに与えてくださる大切な「交わり」です。

クリスチャンの「交わり」のもうひとつの素晴らしい特徴はその多様性です。一般的なおつきあいのほとんどは、共通する立場や興味の上に成り立っているので、集まる人の年齢や社会背景が似通ってきます。しかしクリスチャンの「交わり」には、そのような縛りはありません。そこはあらゆる年代、あらゆる人種、あらゆる職業、あらゆる社会背景の人たちのための居場所だからです。もちろん青年会や婦人会といった、年齢や性別で分かれて行う「交わり」も重要です。そこにある特有の課題を分かち合い、また共感し、支え合うためにとても有益だからです。しかしクリスチャンの「交わり」の真価は、多様な人たちが手を携え、信仰者として共に歩む中で発揮されるといえるでしょう(Ⅰコリント12・27)。

パウロはこの「交わり」を「神の家族」(エペソ2・19)にたとえています。赤ちゃんが家族の中で愛され、だんだん成長していくように、クリスチャンの「交わり」も、その中にいる信仰者の成長をもたらします。あたり前ですが、問題のない家族はこの世にはありません。時には言い争いがあり、ギクシャクした関係が続いたりすることもあります。また、時にはしばらくの間疎遠になってしまうことだってあるでしょう。それでも深いところでは互いに愛し合い、つながっている。それが本来の家族の関係性です。

クリスチャンの「交わり」も同様です。そこにいるのは罪のない人たちではなく、罪の赦された人たちですから、当然問題も起こります。気の合わない人もいれば、カチンときてしまう人もいるかもしれません。意見の食い違いが起こることや傷ついてしまうこと、またさまざまな理由で一時的に離れ離れになってしまうこともあるでしょう。しかし家族の絆が、さまざまな問題を乗り越えて強くなっていくのと同様、クリスチャンの「交わり」もまた、さまざまな問題を乗り越えて強くなっていきます。

ですから問題が起こったときには、祈りつつ、また互いに配慮しつつ、解決に向けた歩みを続けることが重要です。問題がないふりをしたり、そこから身を引いてしまったりしては、成長の機会が失われてしまうだけではなく、「交わり」そのものが死んでいきます。そこに残るのは、魅力のない、誰も加わりたくない、表面的なこの世の「交わり」です。パウロは、「この世と調子を合わせてはいけません。むしろ、心を新たにすることで、自分を変えていただきなさい。そうすれば、神のみこころは何か、すなわち、何が良いことで、神に喜ばれ、完全であるのかを見分けるようになります」(ローマ12・2)と語っています。まずはへりくだって、それぞれ自分が変えられることを祈り求めるとき、その「交わり」は、さらに神様に喜ばれるものとなるでしょう。

 

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