信じても苦しい人へ 神から始まる新しい「自分」第18回 聖書が教える神の愛とは?
中村穣 (なかむら・じょう)
2009年、米国のウエスレー神学大学院卒業。帰国後、上野の森キリスト教会で宣教主事として奉仕。2014年、埼玉県飯能市に移住。飯能の山キリスト教会を立ち上げる。2016年に教会カフェを始める。現在、聖望学園で聖書を教えつつ、上野公園でホームレス伝道を続けている。
神様の愛と他の愛の違いは何でしょうか。プラトンは、「私はあなたを愛している。私にはあなたが欠けている。私はあなたが欲しい」と、愛を恋人同士の恋愛の「エロス」として描いています。
これは、自分が好きな部分を持つ相手を好きになる愛です。アリストテレスは、「私はあなたを愛している。あなたが私の喜びです。そのことが私には嬉しい」と、愛を人間同士の友情の「フィレオー」として描きます。これは大切に思う人に同情したり、助けようとしたりする愛です。
これらの愛には限界があります。恋愛や友情は同じ価値観の下に成り立つものです。もし相手が浮気したり、裏切ったりすると壊れてしまいます。
シモーヌ・ヴェイユは愛を、「私はあなたを無に等しい私のように愛している。神様が私たちを愛するように、あなたを愛している。私は私の力をあなたの弱さのために発揮し、私のささやかな力をあなたのために発揮しよう」と、神様の「アガペー」の愛として描いています。
この神様の愛を示す「アガペー」の愛は、自分を放棄する愛です。私たちは本当に神様の愛を受け取っているでしょうか。イエス様の愛を受け取ることの真の意味は、愛を自分の心にしまい込むのではなく、自分が崩壊し、他者のためにある自分(与える自分)であることを受け入れることです(レヴィナス)。
私が愛されるとき、私は愛を受け渡す存在となるのです。愛されるだけでは、神様の愛は完全な形であらわされていません。
イエス様のへりくだりの愛を一番にあらわしているのは、クリスマスです。これまでの話を踏まえるならば、クリスマスは“私のため”で終わらないはずです。私の隣にいるだれかのためにクリスマスはあるのです。
神様の愛を受け取るとき、主語が「私」ではなく、「神様」になるはずです。そこに愛の自由があります。主語が「私」のままだと、神様より、「私」が愛されることを求めてしまいます。愛されることを求めていると、その先には愛される・愛されないとの比較が必ず生まれ、不安が付きまといます。
聖なる神様の愛を受けるとき、私たちはこの比較からも解放され、神の家族として招き入れられることを知るのです。そして神の家族として、神様の愛を放つ者とされていくのです。これが本当のクリスマスの意味です。
また、クリスマスは、一番愛するひとり子を、三十三年半後にどうなるかを知ったうえでこの地上に送ってくださった、父なる神の犠牲の愛があらわされた時です。
ですから十字架の上にあっても、イエス様は見捨てられていません。父なる神様はその痛みがあるところで、イエス様と共におられたからです。愛する者が目の前で苦しんでいる。身代わりになれるならと、何度思ったことでしょう。
シモーヌ・ヴェイユが『超自然的認識』(頸草書房)の中で、神様にとってクリスマスは、聖金曜日と同じくらい悲痛な祭日だろうと言っています。私たちを愛する父なる神様は、その苦しみをも背負ってくださったのです。そして、最後まで父の愛を信頼しきった子なるイエス様の従順な信仰があります。
この愛の関係が私を救い、私は神の家族となったのです。そして、今度は私がその愛を伝える番です。クリスマスは私で終わらない、終わらせてはいけない。苦しみの中にある人のところに、暗闇を照らす一点の光が発揮されたわけです。ここに神様の自分を放棄する愛があります。
「犠牲は、神へのささげものである。神に捧げることは、破壊することである。だから、人は、神は創造することによって、権利を放棄したと考え、破壊することによって、神に権利を回復させるのである。」
(シモーヌ・ヴェイユ『超自然的認識』)
私たちは人を愛するときに限界を感じます。愛が溢れていたと思っても、すぐに乾いてしまいます。しかし、神様の愛は永遠です。乾くことのない水です。川には伏流水というものがあるのをご存じですか。伏流水とは、川底の下にある水脈です。
干上がっているように見える川でも、石や砂利の下には水脈を保つために細く流れる伏流水があります。神様の愛も同じです。私の心が乾ききったと思っても、伏流水のように神様の愛は涸れることがなく、私たちの心に流れているのです。その愛は私を溶かし、愛するための自分へと変えられていくのです。
あなたは愛されるために生まれてはいない。愛するために生まれているのです。
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