泣き笑いエッセイ コッチュだね!みことば編 第13回 最期の日の朝
朴栄子 著
「あなたのみことばは/私の上あごになんと甘いことでしょう。蜜よりも私の口に甘いのです」(詩編119・103)
「ああ、美味しい。蜂蜜のように甘いなあ」
天国へ逝ってしまう少し前の、アボジのことばです。
生涯現役の牧会者として、講壇の上で死ぬのが夢だったので、水泳やウオーキング、食事など健康に気を遣って過ごしていました。ですから七十四歳で大腸がんを患い、緊急手術後、手の施しようがないと言われたときは、とても信じられませんでした。
入院していた病院には緩和ケア病棟がなく、転院を勧められました。オモニとわたしが選択肢として思いついたのは、ホスピスに入れることだけでした。末期がん患者を家で看取るなんて、想定外だったのです。
しかし紆余曲折を経て、在宅ホスピス医に出会いました。週に三度の看護師訪問、緊急時には医師の訪問、昼間はオモニとわたしと二番目の姉でローテーション。夜間はわたしと姉が付き添うことになりました。
日課は、鼻に通したチューブに薬やスープなどの栄養を入れること、尿の量を記録しバッグを空にすること、オムツ交換、たまにたんの吸引などです。ウトウト眠りがちでしたが、意識は亡くなる二、三日前までハッキリしていました。
足もだんだんと弱ってきましたが、調子の良い日には、家の中か車椅子で少しお散歩もしました。病院にも自宅にも、実に多くの方が訪ねて来てくださいました。
食事を口から味わうこともなく、入浴も排泄もすべて人まかせ。急にそんな生活になってしまったアボジにとって、デボーションは何よりの楽しみでした。キレイな字で所感をつけていましたが、やがて目もかすむようになると、家族が通読箇所を一章読み、黙想の本を音読するようになりました。
一日のうちいちばん、穏やかでホッとする時間。その日の朝は、わたしが読みました。ヨブ記四十章でした。
人々から尊敬され、家族にも財産にも健康にも恵まれていたヨブが、ある日突然何もかも失ってしまう姿が、アボジの状況と少し重なりました。四十章は友人たちと議論し、自分は正しいと反論していたヨブの前に、神さまが沈黙を破って口を開かれる場面です。ヨブはハッとして、二度と口答えしませんと言います。
いかに偉大な人であったとしても、どれほどの功績を世に認められ、自己実現をしたとしても、それがなんでしょう。森羅万象を絵巻物のように見せられて、これを知っているのか、誰がこれをつくったか、コントロールしているか、と問われるとぐうの音も出ません。
数日前から全くことばを発しなくなっていたのに、読み終えると「アー」と応答しました。それから一時間ほどして、眠るように静かに息をひきとりました。
まだまだやり残したことがあると、ノートにありました。けれども全部放棄して、御手にゆだねたのです。よく講壇で、人差し指をちょいちょいと曲げながら語っていました。神さまが来なさいと言われたなら、何も抵抗はできない。いつだって行かないといけないのだ、と。
神さまは、人の生殺与奪を握っておられます。使用人を何百人も抱え、多くの家畜や財産を誇ることも、家族に恵まれて幸せな時間を過ごすことも、すべてを失ってしまうのも、神さまの指ひとつにかかっているのです。それでも子どもであるなら、いつかわかるはずです。保護者は、愛のゆえにムチを控えることがないのを。
ヨブは確かに愛されており、選ばれていました。それゆえに熱い鉄の炉に入れられ、練り鍛えられました。そこから出て再生した姿が、多くの人の心を打ちます。
あとひと月と余命告知がされた晩、オモニと二人で「落ち着こう、落ち着こう」と声を掛け合いながら、なんとか家に辿り着きました。どうして、という気持ちが消えなかったことを覚えています。それでも、きっと何かしてくださる。神さまがご自身の栄光のためによいことをされる、ということだけは信じることができました。
結局、がんが見つかってから三か月で天に帰っていったけれど、あの凝縮された日々は家族にとっての宝物です。アボジの信仰と最後の日々について、あれから何度人々の前で分かち合ったかわかりません。
「お父さん、幸せだったね」
死亡診断を終えた主治医が言いました。みことばを何よりも愛し、待ち望む姿が忘れられません。
在日大韓基督教会・豊中第一復興教会担任牧師。1964年長崎市生まれの在日コリアン3世。
大学卒業後、キリスト教雑誌の編集に携わる。神学修士課程を修了後、2006年より現職。
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