317 時代を見る眼 キリスト教と科学〈2〉理性と知性
国際基督教大学 教授 森島泰則
2020年の末、小惑星探査機「はやぶさ2」が、小惑星リュウグウの試料が入ったカプセルを地球に帰還させるという快挙がありました。コロナ禍の下で暗澹たる空気に包まれているなか、広大な宇宙に目を向けさせてくれる明るいニュースでした。
このようなニュースに接すると、科学技術力に目を見張りますが、認知心理学を専門とする私は、科学技術のもとにある人間の知性や理性、その総体としての心に改めて興味が深まります。
認知科学者のスティーブン・ピンカーが、近著『21世紀の啓蒙』(草思社、2019年)の中で次のようなエピソードを紹介しています。講演で、心は脳の活動パターンで決まると話をしたときに、一人の女子学生がこう訊いたといいます。「なぜ私は生きなければならないのですか?」 彼女への回答は、自分の中にある理性の力を信頼すれば、生きるための合理的な理由を見つけることができるというような内容だったと、ピンカーは書いています。
おそらく彼女はピンカーの講演から、脳の活動パターンという物理的作用からは「意味」(生きる意味も)は生じないと推論したのだと思います。彼女がピンカーの回答に満足できたとは思えません。なぜなら、神経細胞の中にもその働きにも、理性の前提となる「意味」というものは見出せないからです。事実、脳の活動パターンという物質的活動から非物質的な理性(心)が生じるのかという問いは、現代脳科学の最大の未解決問題と言われます。
聖書によれば、理性(心)は神によって与えられました。もちろん、これは科学的な説ではありませんし、脳活動と心の脳科学的な関連性を否定するものでもありません。しかし、一部の科学者が批判するような迷信のような信念でもありません。聖書は、確かな根拠―ここでは触れませんが―に基づいた信頼に値するものだからです。
コロナ禍を「克服」する鍵は、生きる意味を持っているか、そして、その意味とは何なのか、にかかっているのではないでしょうか。
キリストにあって生きる意味と希望を見出したパウロの次の証しは、私たちに勇気を与えてくれます。
「私は、貧しさの中にあることも知っており、富むことも知っています。満ち足りることにも飢えることにも、富むことにも乏しいことにも、ありとあらゆる境遇に対処する秘訣を心得ています。私を強くしてくださる方によって、私はどんなことでもできるのです。」(ピリピ4・12、13)