318 時代を見る眼 キリスト教と科学〈3〉生命といのち
国際基督教大学 教授 森島泰則
昨年から続く、新型コロナウイルス感染。1月7日に首都圏に緊急事態が宣言され、厳しい年明けとなりました。感染収束がなかなか見通せないなか、心の不調を訴える人が増えていると聞きます。また、アメリカでは、精神的苦痛を感じる人の割合が45%に上るというデータもあります。
このような不調は、すべてがそうではないでしょうが、ウイルス感染への不安や外出自粛などの環境変化が原因とみられるため、「コロナ鬱」と呼ばれることがあります。不安感、無気力といった精神的な症状だけでなく、身体的な倦怠感、食欲不振、頭痛や腹痛を伴うこともあります。このことから、あらためて身体と精神の密接な関係に気づかされます。
私たちは、生物学的に複雑な生きものなので、「霊」や「精神」と呼ぶような性質が生じるのでしょうか。それとも、霊や精神が私たちの本質で、それが身体に宿っているのでしょうか。
聖書には、神がいのちの息を吹き込まれたので、人は「生きるもの(生きもの)」となったとあります(創世2・7)。この「生きもの」はヘブル語で「ネフェシュ」です。この語は、旧約聖書に約750回出てきますが、人を指す場合には人の本質を意味します。ここで重要な点は、その本質には物質・非物質という区別がない、つまり、身体と霊は分かち難く一体であるということです。
「ネフェシュ」がギリシア語に訳されたとき、「プシュケー(psyche)」という語が当てられました。この語によって、生物的なもの以上の存在というニュアンスを示そうとしたと考えられています。生物的な存在を意味するなら「ビオス(bios)」という語があるからです。一方、ギリシア的発想が入り込んで、肉体と霊を区別する二元論的人間観が西洋のキリスト教界に広がってしまいました。しかし、もともと聖書は人間を肉体・霊からなる二元論的存在として啓示していないのです。
コロナ禍において「いのちか経済か」という議論が起きていますが、この「いのち」には生物的生命と霊的(精神的)命が分かち難くあることを今一度覚えたいと思います。そして、「いのち」を与え給う創造主なる神とのつながりこそが、私たちを生かすことを証ししたいものです。
「わたし〔キリスト〕はぶどうの木、あなたがたは枝です。人がわたしにとどまり、わたしもその人にとどまっているなら、その人は多くの実を結びます。」(ヨハネ15・5)