イースターを祝う コロナ禍で迎える、二度目のイースター。 「恐れてはいけません。」―復活の力に生かされる

いまだ不安が世界を覆うなかにあって、どんな状況下でも、キリストの復活のメッセージに耳を傾け、イースターを祝う大切さに今一度、思いを馳せる。

 

ミラノ賛美教会 牧師  内村伸之

 

皆さん、イースターおめでとうございます。
なぜ、イースターは私たちにとって特別な日なのでしょうか? それは「人類に対する良き知らせ」が宣言された日だからです。ですから、イースターは、福音が完成したことを喜ぶ日と言えます。新約聖書マタイの福音書二八章には、イースターの大切な出来事が記されていますので、順に見ていきましょう。

「さて、安息日が終わって週の初めの日の明け方、マグダラのマリアともう一人のマリアが墓を見に行った。」
(マタイ二八・一)

ここから、イースターの出来事が始まります。この「墓を見る」という言葉は、じっと見続けるという意味です。非常に強い言葉です。墓を見つめているだけの女たちです。墓を見つめる以外には、何もできないのです。
私が暮らすイタリアでは、昨年、実に多くの方が新型コロナウイルスに感染し、命を落としました。家族ですら、危篤状態になっても誰も看取ることは許されず、亡くなった後の葬儀をしてあげることもできませんでした。私たちは、人の死を前にして、何もできない存在だということを思い知らされています。
次に、マタイの福音書二八章二節には次のようにあります。

「すると見よ、大きな地震が起こった。主の使いが天から降りて来て石をわきに転がし、その上に座ったからである。」

マリアたちにとって、墓穴を塞いでいる石は、あまりにも大きなものでした。ですが、神さまにとって私たちが見つめている墓石というのは、とても小さなものです。神は圧倒的な力をもって、その墓石をわきへ転がされます。次に三節を見ます。

「その姿は稲妻のようで、衣は雪のように白かった。」

この天使は二節の最後を見ると、わきに転がした墓石の上に座っています。私たちが自分では動かせないし、解決できないと思い込んでいる墓石の上に、天の使いは堂々と腰を降ろしていました。墓石が動かされたのは、墓を見に来た二人の女性のためです。
二人のマリアが中に入って、確かに遺体がないと確認するために、墓石は除けられました。イエスのためではなく、この二人の信仰者のために、復活の力を見せるため、墓石は除けられたのです。
神さまは天から、この二人を見ておられました。ゴルゴタの丘の上で、最後の最後までたたずんでいたこの二人を。イエスさまの身体を拭っていたこの二人を。そして絶望の中で、暗い中で墓に向かっていた二人を、神は見ておられました。そしてこの二人のために、天使たちに次のように命じて石を転がしてくださいました。
墓を見つめるだけの女たちには、石が動いた、墓が空っぽであったということだけで、希望が湧いてきたのです。続く八節には不思議な言葉があります。

「彼女たちは恐ろしくはあったが大いに喜んで、急いで墓から立ち去り、弟子たちに知らせようと走って行った。」

「恐れ」と「喜び」という二つの感情が一つにされています。まるで今の私たちの心そのものではないでしょうか?
なかなか収束の兆しを見せないパンデミックを恐れながらも、イースターのイエス・キリストを心から喜んでいます。これが、復活を知った人間の反応です。
女たちは墓を離れて、弟子たちに知らせるために走り出しました。九節を見てください。

「すると見よ、イエスが『おはよう』と言って彼女たちの前に現れた。彼女たちは近寄ってその足を抱き、イエスを拝した。」

イエスが彼女たちに出会って、「おはよう」と言われた。イエスはいつもどおりに、あたかも何にもなかったかのように、この二人に出会って呼びかけてくださいました。今までと同じように、「おはよう」と声をかけて、私たちを守ってくださるということを、マリアは味わったのです。そして、一〇節でイエスは次のように言われました。

「イエスは言われた。『恐れることはありません。行って、わたしの兄弟たちに、ガリラヤに行くように言いなさい。そこでわたしに会えます。』」

復活の後イエスは、ご自分が「友」と呼んだ人、「兄弟」と呼んだ人と朝ごはんを食べられました(ヨハネ二一・一三)。日常生活の中にある、大切なことを示されたのです。
私たちもしばらくは困難の中を通ると思いますが、同時に日常を大切にしたいと願わされます。
イエス・キリストが復活されて最初に言われた言葉は「おはよう」でした。私たちがこのような困難な時代に、互いに挨拶を交わすことができることは、本当に素晴らしいことです。
なぜ私たちは恐れる必要がないのでしょうか。それは、もうこのお方が私たちの代わりに十字架の上ですべての罪を処分して、私たちを死から命へと移してくださったからです。
そういうわけで、私たちはもはや死を恐れることから完全に解放されているのです。このお方がいつも私たちと共にいてくださることを覚えて、イエス・キリストという復活の力と命を伝えていく私たちとさせていただきましょう。