日常の「神学」 今さら聞けないあのこと、このこと 第16回 家庭礼拝

岡村 直樹
横須賀市出身。高校卒業後、米国に留学。トリニティー神学校を卒業し、クレアモント神学大学院で博士号(Ph.D.)を取得。2006年に帰国。現在、東京基督教大学大学院教授、日本福音主義神学会東部部会理事、hi-b-a責任役員、日本同盟基督教団牧師。

 

家族とは、夫婦や親子、兄弟といった関係性を指す言葉です。エペソ人への手紙2章19節には「こういうわけで、あなたがたは、もはや他国人でも寄留者でもなく、聖徒たちと同じ国の民であり、神の家族なのです」とあります。クリスチャンとは、人種や国籍の壁を超え、神様を中心として家族のようにつながっている素晴らしい関係性であるということになりますね。

一方「家庭」は、共に暮らす家族によって築かれる共同体を意味します。たとえば、家族の誰かが結婚して家を出るとき、「新しい家庭を築く」と表現されます。ですから「家庭礼拝」とは、生活の場を共有する家族(時には共に生活する家族以外の人も含みます)を中心に捧げられる礼拝ということになります。

新約聖書の時代の教会の多くは「家庭礼拝」から始まり、そこに多くの人が加えられていく形で大きくなっていきました。「家庭礼拝」は「教会礼拝」の原型のようなものと言えるかもしれません。また「家庭礼拝」には実に多くのメリットがあります。では、それらを見ていきましょう。

「家庭礼拝」は、個々の信仰者を励まします。聖書の中で神様は、ヨナタンとの信仰の交わりを通してダビデを、またアキラとプリスキラとの信仰の交わりを通してパウロを励ましてくださいました。もちろん神様は「個人礼拝」(デボーション)を通しても私たちを励ましてくださるお方ですが、教会に集まることのない週の半ばの「家庭礼拝」を用い、そこにある交わりを通して私たちを励ましてくださいます。

「家庭礼拝」は家庭内の絆を強めます。共に生活していても仕事や勉強で忙しく、すれ違うことが多いのが現代社会です。食事の時間も別々であったり、一緒であってもテレビがその中心となってしまったりする中で、共に聖書を読み、祈る「家庭礼拝」は、一人ひとりが神様と、そしてお互いと親しく向き合う特別な時間です。互いの喜びや苦悩を分かち合うことで、家庭内の絆が強まっていきます。
「家庭礼拝」は、信仰の継承をもたらします。親から子どもへの信仰の継承は、教会の課題であるのと同時に、各家庭の課題でもあります。親が子どもに聖書や信仰について教えるだけではなく、子どもの言葉に注意深く耳を傾け、時には自らの弱さを告白し、神様の憐れみを分かち合う中で、子どもは親を「信仰者の模範」として、より現実的に見ることができるようになります。

「家庭礼拝」は、信仰の成長に役立ちます。日々のクリスチャンの生活には、さまざまな困難が伴います。教会では分かち合うことに気が引けてしまうようなことでも、家庭において正直に、また遠慮なしに話し合われ、聖書から学び、そして祈り合うとき、そこに信仰者としての成長の機会が与えられるのです。

もちろん「家庭礼拝」が困難となる事情もあります。日本はクリスチャン人口の少ない国ですから、家庭の中でクリスチャンはひとりだけという場合も多いでしょう。そのような場合には、「個人礼拝」(デボーション)が中心となるかと思いますが、家族の理解があれば皆に声をかけ、伝道的な要素を持つ「家庭礼拝」を実施することも可能かもしれませんね。またクリスチャンではない家族にそれぞれの祈りのリクエストを挙げてもらい、それを「個人礼拝」の中で祈ることもできます。

「家庭礼拝」に多くの決まり事は必要ありません。聖書を開き、共に祈りの課題を出し合って祈ることが基本ですが、賛美がそこに加わるとさらに良いでしょう。もちろん、頻度や時間帯にも縛りはありません。毎日でも、また週に一回でも大丈夫です。早朝や就寝前、また食前や食後の時間に行ってもOKです。大切なのは、集まる人それぞれの事情に合わせ、同意された時に行うことです。「家庭礼拝」を習慣化することは良いことですが、決まり事が先行してしまうと、集まることが苦になってしまいます。特に「家庭礼拝」に小さい子どもがいる場合、「家庭礼拝は楽しい」と感じてもらう工夫も必要です。思春期の子どもがいる場合、彼らが一時的に「家庭礼拝」から離れてしまうこともあるかもしれません。しかし「家庭礼拝」を継続し、その子どものために祈り続けていれば、必ず神様はその場に戻してくださると思います。

「日曜礼拝」もそうですが、「家庭礼拝」は決して徳を積むための修行の場ではありません。愛のある集まり。喜びと慰めのある交わり。それらが「家庭礼拝」のモットーとなるべきです。そのためには、「家庭礼拝」は愛なる神様を礼拝し、そして愛をもって互いと向き合う時であることを忘れないことが大切です。