日常の「神学」 今さら聞けないあのこと、このこと 第17回 家族伝道
岡村 直樹
横須賀市出身。高校卒業後、米国に留学。トリニティー神学校を卒業し、クレアモント神学大学院で博士号(Ph.D.)を取得。2006年に帰国。現在、東京基督教大学大学院教授、日本福音主義神学会東部部会理事、hi-b-a責任役員、日本同盟基督教団牧師。
家族に対して福音を伝えることを「家族伝道」と呼びます。家族伝道は、さまざまな伝道の中で最も困難な伝道のひとつであるとも言われています。なぜでしょうか。それは未信者である家族が、普段の不完全な私(イライラ・プンプン・オドオド・メソメソする私)を日々見て知っており、「クリスチャンも、自分とあまり変わらないじゃん!」と感じるからかもしれません。
クリスチャンはキリストを信じて救われ、永遠のいのちを得ますが、決して完璧な人間になるわけではありません。天国に入るまでは罪深い存在のままです。では、どうしたらそんな不完全な私たちが、家族に伝道することができるのでしょうか。
聖書には「みことば」を伝えることの大切さが、くりかえし語られています。「みことばを宣べ伝えなさい。時が良くても悪くてもしっかりやりなさい」(Ⅱテモテ4・2)。家族伝道も同じです。
臆病にならず、「みことば」をしっかり伝えることが大切です。しかしそれは「みことばを」呪文のように唱え続けるということではありません。
事あるごとに聖書を開いて読み聞かせる、ということでもありません。しっかりやるとは、まずは「みことば」を、身をもって伝えるということだと思います。
私たちが救われたとき、強く心を打ったのは、ご自分を十字架の上で犠牲にしてまで、身をもって表してくださったキリストの「愛の姿」でしたね。聖書に書かれているその同じ愛を、私たちが身をもって家族に伝えることが、家族伝道の鍵となります。では、家族の中で表すことのできる神様の愛の特徴をいくつか見ていきましょう。
まず第一は、「条件を付けずに愛する」ということです。神様は人間を、一方的な恵みによって愛してくださいました(ローマ3・24)。
しかし人間は、条件を付けずに人を愛することがなかなかできません。自分では気がついていなくても、知らず知らずのうちに条件が付いてしまいます。
愛してくれるから、一所懸命やってくれているから、がんばっているから愛する……といった具合です。たとえこちらが「愛されている」とあまり感じなくとも相手を愛する、家族の一所懸命がんばる姿が見えなくても愛を伝えることが大切です。
第二は、「赦す」ということです。何回まで人を赦すべきですかというペテロの質問に対して、キリストは、「七回を七十倍するまで」(マタイ18・22)と語られました。
人を赦すことは、最も崇高な愛の形かもしれません。赦すということは、相手から自分に何かしらの危害が加えられたことが前提となっているからです。家族だからこそ赦せないと感じることもあるかもしれません。でも、それでも赦すということです。そして赦すからには、相手も「赦された!」と感じる必要があります。
第三は、「コントロールしようとしない」です。放蕩息子のたとえ話は、父なる神様の愛を表す物語ですが、放蕩息子の父は、家から離れて行こうとする息子に財産の分け前を差し出し、彼の後ろ姿を見送りました(ルカ15・12)。
神様は人間の手をねじり上げ、無理矢理従わせようとはされません。慈愛に満ち溢れた目をもって、私たちを見守り、帰ってくれば喜んで迎え入れてくださいます。家族とは言っても、そこにいるのは別の人格を持つ人間です。ひとりの人として相手の意思を尊重することも、ひとつの愛の形です。
第四は、「わかりやすく愛情を表現する」です。キリストは大勢の人々の前で病気の人を癒やし、優しい言葉をかけられました。ゴルゴタの丘の上の十字架も、誰もが見える場所にありました。決して「これみよがし」ということではありません。
それは、多くの人にご自身の愛をわかりやすく伝えるためでした。「家族であれば愛しているのは当たり前。だからあえて言葉で伝える必要はない」と考える人も多いかもしれません。
しかし愛は、相手に伝わってはじめて愛として結実します。心の中で「愛している」と思っているだけでは、自己満足でしかありません。もちろん一日中「愛してる」と言い続ける必要はありませんが、「家族は私に愛されていると感じているかなあ」「どうしたらそう感じてくれるかなあ」と真剣に悩むこと自体も愛の姿です。不完全な自分だからダメと諦めずに、また逆に、「もうできている!」と安心せずに、あらためてチェックし、トライしてみましょう。
ヨハネの手紙第一4章8節には、「愛のない者は神を知りません。神は愛だからです」とあります。私たちの家族は、私たちの愛ある姿の向こうに神様を見いだし、その神様を礼拝する教会に惹かれていくのです。