スピリチュアル・ジャーニー その後 ~真の人間性の回復へのプロセス~
坂野慧吉(さかの・けいきち)
1941年、東京都生まれ。その後、北海道に移住。福島高校、東京大学卒業。大学生時代にクリスチャンとなり、卒業後、聖書神学舎(現・聖書宣教会)に入学。その後、キリスト者学生会(KGK)の主事を経て、1971年より浦和福音自由教会牧師。
第二回 旅日誌を書くということ
ライフ・リヴィジョン・セミナーが持たれた「ラサ」は、数十人ほどが暮らすイタリア寄りの山中にある小さな村であった。その村にハンス・ビュルキ師が様々な労苦を積み重ねて建てた「カーサフォンテ」(泉の家)と「カーサロッカ」(岩の家)があった。六月、カーサフォンテの建物の壁には、赤いバラの花が壁伝い一面に咲き誇っていた。
カーサフォンテの屋根裏部屋は窓がなく、そこは個人の祈りのために使うことができる部屋だった。最初の晩のセミナーは、その部屋で持たれた。ハンスは毎日経験したこと、学んだこと、心に残ったことを短い文章にして「書く」ことを勧めた。その日の夜、静かに一日を振り返って、自分の心に残ったことを思いめぐらす。そして、思いめぐらしたことが、「ことば」になっていくままに、それをことばとして、文章として「旅日誌」に書いていく。
今、私の手元には、二〇〇一年のセミナーの期間に書かれた旅日誌と、その後ヨーロッパ諸国を旅したときの旅日誌、そしてその年の九月のセミナーのときの旅日誌がある。「ジャーニー」(旅)の中で経験したこと思ったことを書き記すのが「ジャーナル」(旅日誌)なのである。
多くの人は、自分の人生を「旅」あるいは「航海」にたとえて考える。その日、その日にことばとして「旅日誌」「航海日誌」として書き記すことには、どんな意味があるのだろうか。ハンスが教えてくれたことをヒントとして、いくつか考えてみた。第一は、「経験したこと」「学んだこと」を「ことば」として表現することによって、単なる出来事の記録ではなく、会話なり、教えの中で、「自分の心が何をどのように感じ、記憶したか」が明確になるということである。内なる思いを表現する助けとなる。
第二に、その日の出来事を書き記す中で、それぞれに起こった出来事がバラバラではなく、深いところで繋がっていることに気づかせられるためである。私たちは、自分の人生から学ぶことができる。
第三には、一定の「旅の期間」が終わったときに、毎日記した「旅日誌」を俯瞰することによって、その旅の期間に何を経験したか、どのように思ったかを一つの(あるいは複数の)テーマとして捉えることができる。
第四には、自分が書いた「旅日誌」を数年後に読むことによって当時の経験を生き生きと思い出すことができ、またその時には気がつかなかったことに気づく機会を与えてくれる。「ことば」は生きている。ことばを通して、数年前、あるいは数十年前のことがリアルに再体験される。その「ことば」が自分の心の深みから生まれたものであれば、自分の心はことばと共鳴して、新しい感動を与えてくれる。
第五には、もしその「旅日誌」が他の人に読まれる機会があり、時と場所を超えて「共感」してもらえるならば、その人の「人生の旅の同伴者」になれるかもしれない。
ハンスはその晩、「美しく書くこと」そして「コンパクト」に書くことの大切さを静かに語った。「美しく書く」とは、ただ美辞麗句を記すことではない。聖霊によって、「神のことば」が自分の心に語られ、神のことばに共鳴して、「自分の心のことば」が生み出され、表現されていく。このようなことばが「美しいことば」なのだと思う。「その美しいことば」が凝縮されてコンパクトなことばとして語られ、歌われるのが、詩篇であり、讃美歌の歌詞なのだ。
ダビデは詩篇一〇三篇一~二節で、「自分のたましい」に呼びかけて歌っている。
「わがたましいよ 主をほめたたえよ。/私のうちにあるすべてのものよ/聖なる御名をほめたたえよ。/わがたましいよ 主をほめたたえよ。/主が良くしてくださったことを何一つ忘れるな。」
ダビデは「詩人」であり、「竪琴の名手」であった。彼は自分の魂の記憶を呼び起こし、美しいことばとして「詩篇」として歌っている。おそらくこの詩には、美しい音楽が奏でられていたのだろう。ダビデは静かに、主が良くしてくださったことを感謝とともに思い起こし、喜びがわき上がり、それが賛美となって迸り出ている。この詩篇を歌うことによって、「主の良くしてくださったことを何一つ忘れない」ようにと、自分の魂に呼びかけている。
私たちも静かに主の恵みとあわれみを思い起こし、感謝の歌を主に向かって歌うことが、主が良くしてくださったことを「忘れない」ために大切なことである。自分の罪を思い出して自分を責めるのではなく、自分が主の恵みの福音によって、すべての罪を赦されたことを感謝しよう。
自分の罪や失敗、様々な試練を通して悩み苦しむときにこそ、「旅日誌」を繙き、主の恵みを思い起こし、主を仰ぎ見る。