泣き笑いエッセイ コッチュだね!
みことば編
朴栄子 著
第17回 いきなりお泊まり!
「人の子は、失われた者を捜して救うために来たのです。」(ルカ19・10)
牧師をしていると必ず聞かれるのが、教会の人数はどのくらいかということです。人数と価値が比例しないとわかってはいますが、それでもこれほど嫌な質問はありません。三十人いればふむふむ、五十人以上だとほお、百人超えるとおおという反応。十人以下だとそうですか、でおしまい。馬鹿馬鹿しいとは思っていても、どうしても気にしてしまうのです。
イエスさまは多くの病人をいやし、悪霊を追い出し、あちこちで群衆に神の国を伝えられました。有名な五千人の給食の奇跡は、女性と子どもを入れるなら二万人ほどになったことでしょう。しかし、数の多さを気にされたことはありません。一匹の羊を捜し出して救うため、という目的がはっきりしていたからです。
わたしの手元には、お気に入りの聖書絵本があります。久しぶりに開いてみた頁には、イチジク桑の木に登っているザアカイの視点から、下で両手を広げて「さあ、降りておいで」と待っておられる優しいイエスさまが描かれています。
自分なんか誰にも好かれない、誰にも理解してもらえない、誰も友だちがいないと思っていたのに、向こうから近寄ってきて名前を呼ばれたのです。それだけじゃなくて、いきなり泊まるからって。目が見開き、胸が高鳴ったはず! マンガなら、木から落ちちゃうシーン!
家に泊まるというのは、親密さの証しです。初めて会うのにファーストネームで呼ばれたうえ、あなたの家に泊まりたいと言われて、心は鷲づかみにされました。一人ひとりとの関係を大切にされる、イエスさまのアプローチがすごいです。
聖書には、ザアカイが喜んでイエスさまを迎えたことしか書かれていません。その後すぐに、回心してだまし取ったものを返すと約束したというくだりなのです。
ふたりの間に何があったのでしょう。
* * *
それは夢のように楽しい宴。今までに一度も味わったことのない幸福で、ゆったりした時間が流れてゆきました。
「聞いてください、イエスさま」
「うん、うん」(食べながら)
「ひどいことばかり、言われてきたんです」
「そうか、そうか」(さらにガッツリ食べながら耳は集中)
ザアカイは誰にも言えなかったこと、心にフタをしてきたことを、洗いざらい打ち明けました。イエスさまは贅を尽くした食事に舌鼓を打ち、お得意のユーモアで孤独な友を笑わせることも、忘れませんでした。
* * *
ふたりの濃密で、心温まる食卓の風景がイメージできますか。罪人呼ばわりされ、嫌われ者の取税人。きっと、心に壁を築き、寂しく生きてきたのだと思います。一目だけでも見たいと思った時の人が、まさかのお泊まり!
その心躍る気持ち、よいカウンセラーを前に饒舌になる感じ、しだいに心が溶かされていく様子は、想像に難くありません。
「あなたのしていることは間違っている」
「もっと誠実に、神の前に正しく生きねばならない」
「不正を今すぐ、悔い改めなさい」
こんなわかりきった説教なんて、ひとこともなさいませんでした。ゴールは彼が救われること、せっかく見つけ出した宝物を輝かせることです。
神さまの目にはひとりの失われた魂が尊いのです。何人を回心させたのか、どれほどの実績があったのかなんて、関心がありません。
牧師の仕事って、実に多岐にわたっています。線引きが難しく、ここまででOKという基準もありません。ここ数年は、近所のおばあちゃんのお世話をボランティアでしています。通ううちに、イエスさまを受け入れる祈りもできました。教会には来られませんが、大切なひとりです。
忙しい日常のなか、タスクが山積みになり、いったい自分が何をやっているのか、わからなくなることがあります。オモニの介護をしていると、あっという間に一日が過ぎて、何もできてへんわという日もしょっちゅう。そんなときこそ、ザアカイの話にじっと耳を傾けられたイエスさまの姿を、思い浮かべます。
わたしがどれほど神さまに愛されていることを知っているのか、そしてその愛を失われゆく魂に向けているのか。そこに大きな期待を寄せておられると信じます。
在日大韓基督教会・豊中第一復興教会担任牧師。1964年長崎市生まれの在日コリアン3世。
大学卒業後、キリスト教雑誌の編集に携わる。神学修士課程を修了後、2006年より現職。
*「コッチュ」は韓国語の「唐辛子」のこと。小さくてもピリリとしたいとの願いを込めて、「からし種」とかけています。