スピリチュアル・ジャーニー その後 ~真の人間性の回復へのプロセス~
坂野慧吉(さかの・けいきち)
1941年、東京都生まれ。その後、北海道に移住。福島高校、東京大学卒業。大学生時代にクリスチャンとなり、卒業後、聖書神学舎(現・聖書宣教会)に入学。その後、キリスト者学生会(KGK)の主事を経て、1971年より浦和福音自由教会牧師。
第三回 自分の人生から学ぶ①
スイスのラサでの「ライフ・リヴィジョン」(人生の見直し)セミナーの中で、ハンス・ビュルキ師は、「自分自身の人生から学ぶ」ことを教えてくださった。そのためには、静かに自分の人生を思い起こし、それをノートに書き記し、書いたものをながめ、振り返り、思いめぐらすことが大切だと語られた。
特に人生の最初の七年間は、時間をかけて、じっくりと丁寧に、優しく、自分の心が記憶していることを書いた文章を味わい、その文章から、その時の光景や、自分がどのように感じたか、なぜその出来事を心が記憶しているのかを「自分の心の声」に耳を傾けながら思い起こす。
普段はその出来事なり、その時の感情を忘れたり、心の奥に押し込めたりしていることが多いので、ゆったりとした環境と心を見つめる時間が必要である。また、自分の人生について、またその中で起こった出来事や自分が行ったことについて、自分の先入観や、固定的な観念で意味付けをしていることについて、「新しい視点から見直す」ことが大事なのだと教えてくださった。またハンスは人生を七年ごとに区切って思い起こすことを教えてくださった。
人生の最初の七年間の思い出と主のご計画(東京から札幌へ)
戦争と平和、時代背景、家族と親族、父と母との関係、友情、勉強、遊び、歌、音楽、学校の先生の影響、キリスト教との出会い、これらが「人生の目的」「自分が生きる意味」を考えることにつながっていく。
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私は、一九四一年(昭和十六年)に東京の渋谷の日赤病院で生まれた。父は保吉、母はエンである。それは太平洋戦争が始まる約一か月前のことで、当時両親は目黒区に住んでいた。母の話では出産は大変だったようで、多量出血のために行った緊急輸血の傷跡を見せてくれたことがあった。その後一家は「小石川区」(今の文京区に含まれる)に引っ越した。
私がおそらく二~三歳の頃だと思うが、自分で勝手に大塚のほうまで行ってしまい「迷子」になってしまった。自分では確かな記憶はないが、その時のことと思われる光景はうっすらと覚えている。母が後になって話してくれたところでは、母の手作りの「エプロン」に私の名前が縫い付けられていたので、無事に家に帰って来られたらしい。
また、当時は食料は配給制になっていて、配給のための札を持って行って交換することになっていたらしい。私は途中でその札を奪われてしまい、顎の下に傷を負わされて帰って来た。その傷跡は今も残っている。
もう一つの記憶は、近所の友だちと遊んでいた時のことである。年上の子が、東京都心のほうを指して、神田のほうが燃えていると言っていた。私もその方面を見て、赤く燃えているのに気がついた。今考えると、それは東京大空襲の時だったのかもしれない。
そして、私たちは父の実家のある北海道の追分に疎開した。その後間もなく、私たちの家族は札幌に引っ越した。父は、サッポロビールでビールの研究をしていた。私たちの家は会社のすぐ前の社宅であった。札幌市北一条東四丁目。父は私を、創成川のそばにあった「札幌教会」付属「明星幼稚園」に入れた。
父は少年時代から「イエス・キリスト」に憧れ、クリスチャン家庭の友人が持っていた「十字架」を欲しがり、自ら木の十字架を作っていたという。その当時、父はクリスチャンではなかったが、私を教会付属の幼稚園に入れたのは戦後のキリスト教ブームのためではなかったようである。
幼稚園の何かの集いの時に、私は歌を歌うことになっていたが、足の魚の目の手術のために入院して断念した。その時の「ガラスの瓶のドロップス」という歌は今も覚えている。私はいつも歌を歌っている子どもであった。
また、近所の子どもたちといつも一緒に遊んでいた。ある日のこと、年上の子たちも含めて、遠くに行こうということになり、私はその後をついて行った。しかし、いつの間にかはぐれてしまい、迷子になった。創成川の交番にだれかが連れて行ってくれたのだと思う。しばらく泣かないでがまんをしていたが、父が私を捜しに来て、私をしっかりと抱きしめてくれたときに、私は声をあげて泣いた。迷子はこれで二回目であった。
私は、自分がどこから来て、今どこにいて、どうしたら「家」に帰ることができるのかを知らなかった。自分の魂も迷子になっていたのに気がついたのは、もっと後のことであった。そして「自分の父」である「神」のもとにイエス・キリストによって帰ったのは二十一歳の時であった。